太田述正コラム#9675(2018.3.1)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その14)>(2018.6.15公開)

 「定信<が>・・・老中就任早々に「文武の藝」、師範役の探索を開始し、林家による聖堂講釈の聴講を促した定信には、おそらく各地の藩校で実施されつつあった「文武」による家臣吟味や試業が視野に入っていたと思われる。

⇒眞壁は「思われる」としているけれど、それが定信自身の「視野」に入っていたとは私は全く「思い」ません。
 栗山の「視野」には入っていたことでしょうが・・。
 その根拠は、事実上、定信が設立したところの、昌平坂学問所は、いわゆる藩校群の大部分が備えていた武芸の教育訓練機能を備えていなかったからです。
 というのも、幕府は、ペリー来航後の安政3年(1856年)に軍艦操練所を創設したことはよしとして、その翌年にもなって、ようやく、その陸上版として創設したくさい、講武所において、「弓術・砲術・槍術・剣術・柔術・・・(のちに弓術・・・柔術・・・は廃止)」の武芸訓練を開始しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AC%9B%E6%AD%A6%E6%89%80
それまでは、かかる教育訓練を行う公的学校が幕府に存在しなかったことが明白だからです。
 しかも、講武所における教育訓練内容に兵学(軍学)が入っていないことに注意してください。
 武芸の教育訓練抜きの兵学講釈はありえません。
 というのは、(個人技における勝負の彩、勘所のある程度の修得が、集団技であるところの、兵学を理解するための必要条件だからです。(典拠省略))
 まともな藩校は、まさに文武教育の場であり、その武は、武芸と兵学から成っていた(10日のオフ会「講演」参照)のですから、昌平坂学問所は、まともな藩校とは似て非なるものだったのです。(太田)

 じっさい、「栗山上書」にも見られるように、一方の武の面では、「御上」の「御苦労」によって次第に武芸修練の気風が旗本の間に興り、将軍の武芸上覧も行われるようになって確実に成果を生みつつあった。
 上覧は番士や小普請による大的や騎射だけであった。
 しかし、騎射だけではなく、「栗山上書」の提案に載る「鎗術・劒術・弓馬犬々」の吟味や番入り後も武芸上覧させて武道出精を促すという記述と符合するかの如く、特に寛政3年10月・・・以降は、上覧武芸の対象と内容が拡大し、布衣<(注32)>以上・以下の諸役人や寄合たちも含めた「武技」「弓馬」「砲術」「鎗術」吟味が実施された。

 (注32)「江戸時代、幕府は元和元年(1615年)に服制を定め、布衣が旗本の礼装に採用された。やがて布衣は服装の呼称のみならず江戸幕府の旗本の格を示す用語とな<り、>・・・六位相当叙位者と見なされた。
 <ちなみに、>布衣より上位の旗本(従四位上~従五位下)のうち従五位下を諸大夫(しょだいぶ)と呼<んだ。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E8%A1%A3

 また、栗山のいま一つの旗本の武に関する提案、旗本の「大身者」が特に「智者」として「陣立」手配が可能となるよう「兵學・軍學」に出精するようにとの要請は、具体的に何の兵書が、いかに学習され、どのように吟味されたか詳細は不明だが、結果から確認すれば、これを期に「軍學」も番入り選考の一項目となったのである。」(95~96)

⇒「詳細は不明」ということは、上書中のこの部分は採用されなかったということでしょう。
 眞壁は、「結果から確認すれば」と書いていますが、どんな「結果」なのかすら示していない、ということは、「確認」などしていない、ということでしょう。
 私に言わせれば、「確認」できるはずがないのです。(太田)

(続く)