太田述正コラム#9687(2018.3.7)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その20)>(2018.6.21公開)

 「しかし、対崎門派を意識したこの「朱学」理解の修正要求にも拘らず、幕府儒者たちがなおも「宋学」に固執する所以はどこにあるのか。
 第一に、・・・学問吟味の標準としての四書五経の注解に新註を用いて「宋学」を固持したことは繰り返すまでもないが、第二の理由として、「宋学」の教育的効果への期待があったと思われる。

⇒第一の理由は、これだけでは意味不明です。(太田)

 番入り選考の一項目として学問が採用され、学問の担い手とその学習者が増加し多様化すればこそ、初級から上級へと段階を踏んで学習する万人に開かれた方法が確立されなければならない。
 儒学の知的伝統を集大成した「宋学」は、まさにその目的に叶っていた。
 北宋の程顥<(注38)>、程頤<(注39)>、朱熹<(注40)<(コラム#2903、4856、6831、7656、7944、8760、9268、9659、9683)>>が確立した教程である「学問の緩急本末之序」はすなわち、四書・小学<(注41)>・近思録<(注42)>を基礎として、さらに進んで五経・子集<(注43)>・史書類へと知見を拡大させ、学問を「修己治人之用」に供していく学習方法である。

 (注38)ていこう(1032~85年)。「北宋時代の儒学者。・・・明道先生と称された。・・・朱子学・陽明学の源流の一人であり、弟とあわせ「二程子」と呼ばれる。・・・26歳で進士に合格し、38歳頃に中央官庁の役人になったが王安石と意見が合わず、その後は・・・地方官として過ごした。・・・
 心においても他人の苦しみを感じないことを「不仁」、感じうることを「仁」と考えた。・・・宇宙の万物は陰陽二気の交感によって生成され、事物の差は陰陽の混合の度合いに偏りがあるからだと考えた。・・・弟の程頤が兄の発想を分析・理論化したのに対し、程の直観を重視する傾向は陸九淵<(陸象山)>に受け継がれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%8B%E3%82%B3%E3%82%A6
 陸象山(1139~93年)。「進士に及第後地方官・中央官・・・
 象山の思想は「心即理」ということばで特徴づけられることが多い。朱子学では心を「性」(人が本来持つ善なる本性)と「情」に分け、「性」こそ「理」(ものごとをあるべくしてあらしめる天のことわり)であるとした(すなわち「性即理」)が、象山はこれに対し、心を分析してその中に性・情や天理・人欲を弁別することを良しとせず、心そのものが「理」であると肯定した。象山の思想を心学と称する所以である。これは<程頤>の「善悪みな天理」という考えを敷衍したものに他ならない。心=理とする思想は、心以外のものに束縛されないことを意味し、これを推してゆけば六経や孔子・孟子その人すらも、そこに先験的な価値を置かない姿勢を導き出す。・・・
 それはやがて明代に至り王陽明へと受け継がれ、「陸王学」あるいは「心学」と呼ばれ一世を風靡するのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%B1%A1%E5%B1%B1
 (注39)ていい(1033~1107年)。「伊川先生と称された。・・・27歳で進士の最終試験に失敗してからは仕官を断念し、学問に専念した。54歳の時、司馬光などの熱心な推挙により哲宗の講官(侍講)に就任したが、性格が謹厳に過ぎその非妥協的な言動が同僚との軋轢を生じ、特に蘇軾やその門下生と争い、まもなく朝廷を追われた。・・・
 程頤の理気二元論、「性即理」「格物」などの発想は朱熹に継がれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%8B%E9%A0%A4
 (注40)1130~1200年。「朱子(しゅし)と尊称される。・・・19歳の時に科挙に合格。・・・
 朱熹はそれまでばらばらに学説や書物が出され矛盾を含んでいた儒教を、<程頤>による性即理説(性(人間の持って生まれた本性)がすなわち理であるとする)、仏教思想の論理体系性、道教の無極及び禅宗の座禅への批判とそれと異なる静座(静坐)という行法を持ち込み、道徳を含んだ壮大な思想にまとめた。そこでは自己と社会、自己と宇宙は、“理”という普遍的原理を通して結ばれ、理への回復を通して社会秩序は保たれるとした。なお朱熹の言う“理”とは、「理とは形而上のもの、気は形而下のものであって、まったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は“不離不雑”の関係である」とする。また、「気が運動性をもち、理はその規範・法則であり、気の運動に秩序を与える」とする。この理を究明することを「窮理」とよんだ。
 朱熹の学風は「できるだけ多くの知識を仕入れ、取捨選択して体系化する」というものであり、・・・後に「非実践的」「非独創的」と批判された。しかし儒教を初めて体系化した功績は大き<い。>・・・
 <また、>身分制度の尊重、君主権の重要性を説いて<いる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E7%86%B9
 (注41)「1187年に朱熹が<弟子>に編纂させた儒教的な初等教科書。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%AD%A6
 (注42)「朱熹と<もう一人>が・・・、<程顥、程頤、他2名>の著作から編纂した、1176年に刊行された朱子学の入門書である。・・・。日本では江戸時代後期に各地の儒学塾で講義された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%80%9D%E9%8C%B2
 (注43)子部。「思想(諸子のほか科学・芸術・仏道など)」
https://kotobank.jp/word/%E7%B5%8C%E5%8F%B2%E5%AD%90%E9%9B%86-488647

⇒程顥は人間主義者だったと言えそうですね。(太田)

 「宋学」の成果に従って、このように「学之正路」を踏み外さず階梯を一つひとつ上って学ぶことにより、学習者は儒学を体系的に体得することが可能とされた。」(111~112)

(続く)