太田述正コラム#9689(2018.3.8)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その21)>(2018.6.22公開)

 「学問所に集う教授陣が「宋学」を堅持する理由は、このような教程としての機能のほかに」、第三に、むしろ本来の「宋学」は「博学」を目指すものであり、「程朱ノ學コソ博學ヲ主ニ」し「最モ正大ニシテ偏ナル乁ナ」き学問であるという確信に由来すると考えられる。

⇒引用文中の「乁」のような漢字に注釈を付けないことや、前にも同趣旨のことを指摘しましたが、この後の説明文の中に出てくる、「遵う」や「試業」といった日常的に使わない漢字や熟語を用いることは、一般読者に対して不親切極まりません。
 それでいて、この後の説明文の中で「実際」でなく「じっさい」と記すあたりからは、校正方針の不統一というか、恐らくは眞壁自身を含む校正の際の杜撰さもうかがえます。(太田)

 異端者たちからの批判に応え、かつ急進的な正学派へも批判を加え、「宋学」は決して、「偏固」ではないという主張の根拠がここにみられる。・・・
 思想的混乱状況にあった江戸儒学界は、これを機に、幕臣子弟を対象とする統一的な学問吟味のために、「宋学」という統制的理念の下に再編された。

⇒このくだりには典拠が付されていませんが、江戸儒学界を持ち出すのであれば、日本儒学界についてはどうだったのか、そもそも、江戸儒学界と日本儒学界との関係はいかなるものであったのか、を眞壁は説明すべきでした。(太田)

 たしかに科挙とは異なり、その成績は高級官吏への道を保障するものではないが、徳川後期の若き幕臣子弟たちは、吟味及第という「家の面目・自身の誉」を目指し、士大夫の如く互いに競うようにして東アジア共通の漢文による古典的教養を学び、そのことによって自己陶冶を為し遂げ、また社会的信認を得ていったのである。

⇒眞壁は、学問吟味と科挙との違いを言うのであれば、試験の中身の違いにも言及すべきでした。
 前述したように、私の認識は、前者は官吏登用試験内容としては、後者とは全く違って、極めて合理的なものであったようだ、というものですが、私としては、その認識でいいのか、いいとして、それは、学問吟味が行われた期間全てに当てはまるのかどうか、をぜひ知りたいのですが・・。(太田)

 長期的な視点にたてば、人材選挙のための<差別化>という諸試業にむけた一連の学習・教育過程で、経書テクストを学びつつ、儒学世界で理想とされる官吏としての社会的規範を内面化(<社会的適性化>)していくことが、学問所における幕臣たちの<政治的社会化>であったと考えられよう。
 尤も幕府の「士を養ふの教化」の成果は、学問所の確立と安定に伴って、儒学のもつ他の機能的内実を学生に付与したはずである。

⇒どうして、こんな、分かりにくい表現を眞壁は好むのでしょうね。
 なお、前段についてですが、眞壁の文章は分かりにくいものの意味はどうにか分かるけれど、どうしてそう「考えられ」るのか、が、私にはさっぱり分かりません。
 「儒学世界」って異国である「支那」における、宗教的要素を含む学問であるところの「儒学」の「世界」のわけですが、その「規範」を身に着けることが、一体全体どうして、日本の統治階層の若者達の「社会的適性化」に資するのか、そしてまた、そんなものが、彼らの「政治的社会化」につながるのか、がです。(太田)

 すなわち、初発段階で意図された倫理規範の内面化は、一方での一、「御上」や個別の人格への忠誠ばかりでなく、二、経学が説く普遍的な道理に遵う精神をも陶冶することになる。
 自己組織や派閥の縄張り争い、権限争奪になってしまう役人世界の現実を前に、官僚育成には目先の「小智」ではなく、「大理」に固着する精神が他方で求められ、そしてじっさいにその育成に少なからず功を奏していく。
 「忠孝」を説く栗山においても、「将軍」より上位に「天道」が観念され、道理を曲げず「萬民に理非を立」てることが主張されたように、人為的な先例や形式的な理屈ではなく、条理、正義にかなう普遍的原理に遵う契機が保障されていたのである。
 学問所儒学でも、旗本・御家人の子弟が専ら本読み学問によって実践と没交渉になることに対しては、後に学問吟味でも時務策が導入され、現実の問題を条理・道理に従って論じることが試みられる。
 また、定信が「繁文」の弊害を嘆くまでに文書行政が発達した徳川後期には、能吏として文書作成能力は不可欠であり、学問所出身の幕臣たちの中には出仕後すぐに記録史料や書誌の編纂に専従する者も少なくなかった。
 そのことを踏まえるならば、江戸で随一の蔵書量を誇る学庫を擁した学問所での漢籍による学習は、比較法制・地理・海外情報など、三、書籍や記録文書を駆使した専門的情報処理操作に資することにもなったのである。」(112~114)

⇒全般的な批判をとりあえず行っておきます。
 朱子学は、(私は原典類の翻訳書等に直接あたっていないので感覚論であることをお断りしておきますが、)出来悪の公理系哲学であるという認識を持っているところ、学問所では、漢語で書かれた朱子学の原典類も読ませてこの出来悪公理系哲学を身に着けさせたのでしょうから、漢語という外国語を修得させたことと相まって、論理的思考力を鍛えることにはなったことでしょう。
 しかも、当時の公文書は漢文及び漢文調の和文であった・・違っていたらゴメンなさい・・ので、国語の力を鍛えることにもなったことでしょう。
 しかし、陽明学はともかくとして、(一次史料を重視した)古学を排除していた、ということは、鍛えられた論理的思考力は、演繹的(合理的)思考力が中心であって、帰納的(経験的)思考力は余り鍛えられなかったと懸念されます。
 更に問題であったのは、陽明学や古学といった「異学」を排除していたことは、公理群・・この場合は人文社会科学的なものが中心だったので、価値群、と言い換えていいでしょう・・の当否を判断する力が鍛えられなかったと考えられる点です。
 換言すれば、イエスマン養成教育だった点です。
 そして、根本的な問題であったのは、朱子学だけでなく、儒学全般に、まともな形での兵学が含まれていない以上、(武士であるにもかかわらず、)幕臣の若者達が、学問所という公教育の場で兵学を教えられることがなかった点です。
 換言すれば、文官官僚養成教育だった点です。
 これは、学問所における教育、そして、当然のことながら研究、に大きな欠陥ないし欠落があったことを意味します。
 眞壁が、これまで余り取り上げられてこなかった幕府の公教育を研究対象として選んだことには敬意を表するけれど、彼が、(このあたりの記述からも伺えるように、)研究対象を肯定的に見過ぎていることは、彼自身のために残念に思います。
 学問所における教育研究に、上述したような欠陥、欠落があったからこそ、幕府は維新の主体たり得なかったのではないか? とか、各藩が設立した藩校類に比較すれば、幕府にはカネも人材も豊富であっただけに、学問所は規模的にもインフラ的にも充実しており、学問所をモデルに爾後設立されたと思われる開成所等と相まって、維新以降の日本の教育研究に様々な負のレガシーを残したのではないか? といった、問題意識を彼が抱いて研究してくれていたら、より大きな成果が生まれていた可能性があるからです。(太田)

(続く)

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