太田述正コラム#9695(2018.3.11)
<2018.3.10東京オフ会次第(続)>(2018.6.25公開)

C:吉田松陰は明倫館に入学してはいないのではないか?
O:仮にそうだとしても、彼が、明倫館で兵学講義を行ったことは確かであり、ということは、明倫館の図書を利用可能であったずなので、明倫館で学んだ、と言えるのではないか。
C:高杉晋作が確実に読んだ諸本のリストを見つけたが、その中の兵学の本と思しきもののうち、ネットで読むことができるものが一つあったので目を通したが、大したことは書いてなかった。
O:高杉は、(松陰等から兵学を学んでいたはずであり、)史書を読んでいたようなので、当時の史書が政治軍事史であったことから、兵学的観点から史書を読み込んだはずだ、とは言えるのではないか。
E:人体は、細胞→組織→器官→器官系→個体、という重層的な階層構造になっている。
 社会もそういうものと見るべきだ。
A:その通りだ。
F:私にはそうは思えないが・・。

⇒私自身は本件については発言しなかったが、社会を人体のアナロジーで捉えることに違和感を抱くFさんの方にシンパシーを感じていた。
 しかし、11日のディスカッションに転載したkomuroさんのコメントによって、私自身が、日本を、まさに、E・Fさんの主張のような(人体的)社会として描いている、という事実を突きつけられてしまった。
 そこで、急遽、考えてみた。
 国家有機体説(注1)と社会有機体説(注2)は、通常、ハーバート・スペンサー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC
が双方で名前が出てくるけれど、微妙に異なるが、そのことは無視しよう。

 (注1)国家有機体説:「国家をひとつの生物であるかのようにみなし、その成員である個人は全体の機能を分担するものであるとする国家観。古くはプラトンに始まり、ヘーゲルやバーク、ハーバート・スペンサーらによって論じられている。社会契約説と逆の立場。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E6%9C%89%E6%A9%9F%E4%BD%93%E8%AA%AC
 (注2)社会有機体説:「社会を生物有機体になぞらえて把握する社会観で、社会機構体説と対比される。社会を機械的なメカニズムをもつものととらえる社会機構体説では、ちょうど時計を分解して掃除し再度組み立てることができるように、社会も全体が部分の積み重ねでできていると考えられる。これに反して、社会を生物有機体になぞらえる社会有機体説では、生物を部分に分解すれば死んでしまうから、一度死んだ部分をいくら積み重ねても生命は戻らない、つまり全体は部分からなるのでなく、全体は部分に先だつという考え方になる。さらに有機体とのアナロジーを推し進めて、社会的分業を有機体の諸器官の機能分化とその相互依存になぞらえれば、社会の諸部分は全体を維持するための諸機能をもって存在するという機能主義的な考え方に帰着する。」とするコント(仏)、スペンサー(英)、リリエンフェルト(露)、シェッフレ(独)、ド・グレーフ(ベルギー)、エスピナス(仏)、ウォルムス(仏)らの説。
https://kotobank.jp/word/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E6%9C%89%E6%A9%9F%E4%BD%93%E8%AA%AC-75732 ※

 私は、かねてより、バークのは一種の文明論でそれなりの評価ができるが、スペンサーの社会進化論はダーウィンの進化論の誤用でナンセンスであり、残りのは、少しずつ異なるが全て(ナショナリズムやファシズムにつながりうる)有毒なゴミである、という認識を抱いてきており、これは、現在の欧米の社会科学者の共通認識とそう異ったものではない、とも思っていたので、Fさんにシンパシーを抱いたわけだ。
 しかし、このような認識は改めなければならないのではないか、社会有機体説、とりわけ、「細胞との類比によって社会を超個人的実在であると説き,社会の解剖学的・生理学的研究として社会静学,社会の成長の研究として社会動学を設けた」コント(※)を再評価しなければならないのではないか、という気がしてきた。
 で、とりあえずの見解だが、以下のようにしておきたい。
 「国・社会は人体的有機体なのだが、現在のところ、人体的有機体説で解明できるのは、歴史上のものを含めた世界の国・社会の中で、基本的に日本だけである。
 なんとなれば、人体的有機体性が顕在化しているおかげで、現在の社会科学の水準をもって、人体における個々の細胞的なものとして、国・社会における個々の個人を容易に論じうるのは、(過去のものを含む)国・社会群の中で、基本的に(過去から現在に至る)日本だけだからだ。」(太田)

(続く)