太田述正コラム#9717(2018.3.22)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その25)>(2018.7.6公開)

 「諸藩から集った書生寮や家塾の門人たちには、学問所の校内試や学問吟味の受験資格はなかった。
 しかし、相互の切磋琢磨や詩会への参加ばかりでなく、儒者からは稽古人と同じく別の形での試業が行われていたことも確認できる。
 その一つである「策問」<・・>元来策問は、天子が政治上の問題を簡策<(注49)>に記して人士の意見を徴集することを意味した。日本では、伊藤仁齋が古義堂での教育にこの策問方法を用い<た。><・・>は、ある漢文題を与えられ、それに対して「対策」と呼ばれる漢文の解答文で応えたものである。

 (注49)「竹簡,木簡」
https://kotobank.jp/word/%E5%B8%9B%E6%9B%B8-600243

 多くの場合、提出された漢文について師匠である儒者が添削・批評を加え、または同僚同士で相互に批評し合っている。
 寛政・文化初期の「策問」では、学統の正統性を問う出題が圧倒的に多い。
 たとえば、尾藤二洲による寛政4年の「策問」は、次のように「諸生」に仏教<(注50)>の弊害除去の方法を問い、また「正學」唱導の歴史的背景と「正學」説の根拠を問うている。

 (注50)「江戸時代の仏教は、[徳川家康<による>、寺院諸法度<の>制定<、や、>寺社奉行<の設置、から始まったところの、>]徳川幕府の統制下に置かれ、幕府の民衆支配の一機構として機能することにな<る>。 それが、本末制度と寺檀制度(じだんせいど[=檀家制度])<である>。本末制度とは、各寺院を本寺と末寺という上下関係の中に組み込んで、本寺に人事権などの大きな権限を与えて、 末寺を支配させるという寺院の間の制度<である>。寺檀制度とは、民衆と寺院を結びつける制度で、寺院と檀家を固定させ・・・るもの<だっ>た。 」
http://todaibussei.or.jp/izanai/18.html
 「江戸幕府が日蓮の教義を信じない事を理由に従う事を拒絶した日蓮宗の一派の不受不施派は、禁教令のキリスト教と同様に厳しい弾圧を受けた。[なお、1665年の檀家制度の導入前の]1654年に来日した明の隠元・・・は<、例外的に、>黄檗宗<の>布教<を許され>ている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99 ([]↑↓内も)
 なお、「仏教の檀信徒であ<ってキリシタンではない>ことの証明を寺院から請ける制度<が、>寺請制度<であり[、これによって、(キリスト教のみならずあらゆる宗教宗派の)布教活動<が>実質的に封じられた。]・・・民衆は、<やがて、>いずれかの寺院を菩提寺と定め、その檀家となる事を義務付けられ<ることになる(檀家制度)>。寺院では現在の戸籍に当たる宗門人別帳が作成され、旅行や住居の移動の際にはその証文(寺請証文)が必要とされた。<そして、>各戸には仏壇が置かれ、法要の際には僧侶を招くという慣習が定まり、寺院に一定の信徒と収入を保証される形となった。
 一方、寺院の側からすれば、檀信徒に対して教導を実施する責務を負わされることとなり、仏教教団が幕府の統治体制の一翼を担うこととなった。僧侶を通じた民衆管理が法制化され、事実上幕府の出先機関の役所と化し、本来の宗教活動がおろそかとなり、また汚職の温床にもなった。この事が明治維新時の廃仏毀釈の一因となった。
 また、民衆の側からすれば、世の中が平和になって人々が自分の死後の葬儀や供養のことを考えて菩提寺を求めるようになり、その状況の中で寺請制度が受け入れられたとする見方もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E8%AB%8B%E5%88%B6%E5%BA%A6

⇒「上」の公から「下」の私にわたる、エージェンシー関係の重層構造を特徴とする(点ではプロト、現行共通の)日本型政治体制がここにも見られます。
 また、江戸幕府が、全宗教・宗派に布教を事実上禁じたことに対しては、そう遠くない将来、世界的に採用されることとなるであろうところの、宗教廃棄政策の第一段階の先取りであった、という高い評価が、国際的に下されることになることでしょう。(太田)

 〇「問ふ。佛氏之道日に盛んにして、寺院天下に遍し、其の斯民に害有るや、固より論を待たず。今諸子斯民のために斯害を除かんと欲すれば、則ち将に何を以てせんか。
 吾平生此に意有りて未だ其の説を得ず。試みに其の行ふべきものを考へ、我為に之を陳べよ」。

⇒「其の斯民に害有るや、固より論を待たず」と断定しつつ、いかなる「害」が念頭にあるのかを示さず、「斯害を除」く方法を論ぜよ、というのですから無茶苦茶です。
 尾藤二洲が、仏教が、民衆教導の任を負わされ、かつ、末端行政機関化させらている、ことを無視して、あたかも、仏教そのものが「異学の禁」の対象たる「異学」である、としているようにも受け止められうる設問です。
 悪問の最たるもの、と言うべきでしょう。(太田)

 <「「正學」唱導の歴史的背景と「正學」説の根拠」の方は省略する。(太田)>
」(127~128、550)

(続く)