太田述正コラム#9719(2018.3.23)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その26)>(2018.7.7公開)

 「「策問」<で>・・・問われる主題<は>、学統論から時務論へ、経書解釈にも関わる哲学的な議論から具体的な政策論へと移行してい<く。>・・・
 このことを、・・・別の側面から検証してみよう。・・・
 第一に・・・検討されなければならないのは、・・・<私が>論じ残し<ている、>学問吟味の「文章科」の問題である。・・・
 ・・・「文章科」には、享和3(1803)年から、経世策を問う出題、すなわち「時務策」が新たに加えられた。
 これに伴い、寛政期からあった「文章題論」の内容も、歴史上の人物評価から直截に政治論を求めるものへと変化する。・・・
 第二に、・・・学問所儒者たちの著作、特に漢文著作の論説の様式と内容の変遷である。・・・
 当初の学問の正統性を正面から主題にする議論が後退し、それに変って歴史上の政治評価も含め政治論・政策論が現れる・・・
 <もとより、>中国史<に関するものが多いが、それ>ばかりでなく、日本史では、北條義時・・・豊臣秀吉の評価が盛んに主題にな<り出す>。・・・
 さらに具体的な経世策論・・・が現れるようになる。・・・

⇒これらは、言うまでもなく、大変結構なことです。
 問題は、それが、どこまで行っても、文官(官僚)教育でしかなかったことなのです。(太田)

 昌平坂学問所内には三つの史局、すなわち地誌調所・沿革調所・御実紀調所が設置されて、・・・官版出版のほかに、書誌編纂作業<も>行われたことが知られている・・・。・・・

⇒こういう研究インフラの整備の意義は極めて大きいのですが、このようなインフラの存在ゆえにこそ、それと不可分であったところの、昌平坂学問所の教育研究機関としての在り方が受け継がれて行き、明治維新以降の日本の教育研究の在り方を規定して行ってしまった、というのが私の仮説なのです。(太田)

 このような江戸の幕府の学問所<は>、人間を媒介にして、諸藩にまで広がる知的な交流関係をもっていた・・・。
 <一つは、>師弟関係という社会的紐帯で繋がる、全国に広がった知的共同体が浮かび上がる。・・・
 学問所内の書生寮や家塾には、旗本や御家人という幕臣以外の江戸庶民や、全国諸藩からの遊学者、江戸藩邸の在住者などの入門者が群をなしていた・・・。
 <もう一つだが、>このような門人という師弟関係で繋がったネットワークばかりでなく、学問所が在った江戸社会には、知識人相互の水平的な文芸結社も観察される。・・・
 この盟約で繋がった水平的な文芸結社は、家塾や私塾での師弟上下関係の場合の・・・人的繋がりとは性質を異にするであろう。・・・
 幕府の寛政改革以前より宋学を藩学の主軸に据えていた藩校には、たとえば、林家の門人たちによって藩学の基盤が築かれた佐倉藩の成徳書院・・・名古屋の明倫堂・・・萩の明倫館・・・などが知られる。
 また、初期の陪臣の出講を含め、学問所と人的な交流があった、熊本の時習館・・・鹿児島の造士館・・・佐賀の弘道館・・・安藝の学問所・・・なども、早くから宋学による学政改革を行っていた。
 しかし、寛政期の宋学による昌平黌の学政改革と、その結果設立された昌平坂学問所の学問は、諸藩からの江戸への遊学者、江戸詰の儒者・藩士、書生寮や家塾への門人というさまざまな人的交流を媒介にして、急速に全国諸藩へと波及し、各地で宋学を基調とする「造士」が実施されていくことを可能とした。
 先行する諸藩の学政改革の成果を採り入れた幕府の学政改革のある程度の成功によって、さらに多くの藩で、自発的に改革が行われていくことを確認できる。」(132~138)

⇒ここで眞壁が言及した藩校群の中で、少なくとも、明倫館、時習館、弘道館は、昌平坂学問所とは似ても似つかない、文武教育研究機関であった(コラム#9692)、ということを我々は知っています。
 これらを含む、特定の藩校群の儒学教育研究部門が宋学の看板を掲げたかどうかなど、どうでもいいことなのです。(太田)

(続く)