太田述正コラム#9721(2018.3.24)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その27)>(2018.7.8公開)

 「寛政改革以降の徳川日本で、・・・学問と外交とを繋ぐ接点に位置したのが、林家と昌平坂学問所儒者であった。
 ・・・そこに徳川後期の儒者の政治参与という重要な経験の一つを見ることができるのである。・・・
 19世紀の徳川日本・・・が直面した異質な世界体系は、(a)段階を踏んで、まず近代西洋の資本主義的な世界経済体系、次に(非キリスト教国・非文明国には、キリスト教文明国間の国際法をそのまま適用させない)近代西洋国際法体系だったのであり、そのいずれもが(b)歴史性を帯びた、(決して国家平等観にではなく、「文明」史観に基づく)産業革命を背景とする18世紀末から19世紀の「文明国」の世界システムであった・・・。・・・

⇒オランダ東インド会社の日本進出を「近代西洋の資本主義的な世界経済体系」との「直面」と捉えることには、強い違和感があります。
 オランダ東インド会社は、「1602年3月20日にオランダで設立され、世界初の株式会社といわれる<が、>会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられた勅許会社であり、帝国主義の先駆け<であり、>アジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E6%9D%B1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E4%BC%9A%E7%A4%BE
存在だからです。(太田)

 近世後期の日本において、従来より国際環境に開かれていた地域は、・・・「四つの口」であった。
 すなわち、一、海禁政策により唐・蘭の商人を相手にする官許貿易<(注51)>の拠点となった長崎、二、朝鮮と幕府の関係を仲介するばかりでなく、安永4(1775)年まで朝鮮と交易も行った対馬、さらに三、慶長14(1609)年の島津氏の侵攻以降、その後も、明清と朝貢–冊封<(注52)>関係を継続させるとはいえ実質的に薩摩藩の支配を通じて徳川日本の幕藩体制に包摂された琉球、そして四、蝦夷地のアイヌと接触をもち、交易関係にあった松前である。

 (注51)「清は台湾の鄭氏政権への対策として遷界令で<支那>沿岸の居住を禁止したが、やがて遷界令が廃止されて<支那>からの来航が増加する。幕府は<支那>人の居住地区として、唐人屋敷を建設した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%B2%BF%E6%98%93%E5%8F%B2#長崎貿易
 「近世後期においては長崎の唐船貿易の実態は薬種貿易であったといえる。」
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000059083
 「江戸幕府は<支那>薬種を大量に輸入する一方で、圏内における薬種生産の. 拡大も図っていた。」
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/1498414/pa001.pdf
 (注52)「冊封(さくほう)とは、称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係の一種。「天子」とは「天命を受けて、自国一国のみならず、近隣の諸国諸民族を支配・教化する使命を帯びた君主」のこと。中国の歴代王朝の君主(モンゴル帝国、清朝を含む)たちが自任した。
 冊封が宗主国側からの行為であるのに対し、「朝貢国」の側は
「臣」の名義で「方物」(土地の産物)を献上
「正朔」を奉ずる(「天子」の元号と天子の制定した暦を使用すること)
などを行った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81

⇒幕府は、清商船の長崎来航を拒まなかったというだけであって、これを官許貿易と呼べるのかどうか、という気もしますが、いずれにせよ、蘭商船との長崎での交易を官許貿易と捉えることは妥当ではないのであって 交易を主とする事実上の日蘭国交であった(注53)、と捉えるべきではないでしょうか。(太田)

 (注53)「長崎のオランダ商館はオランダ東インド会社の日本支店であり、商館長であるカピタンは対日貿易の維持・発展を願って、貿易業務を終えた後の閑期に江戸へ参り、将軍と世子に対する謁見(拝礼)と献上物の呈上を行った。その際には、老中や若年寄といった幕府の高官たちへも進物を贈った。カピタンの「御礼」に対し江戸幕府側は、貿易の許可・継続条件の「御条目(ごじょうもく)」5ヵ条の読み聞かせと「被下物(くだされもの)」の授与をもって返礼とした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%94%E3%82%BF%E3%83%B3%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%8F%82%E5%BA%9C
 「寛永17年(1640年)、幕府はカトリック国であるポルトガル・スペインの動向を知るため、オランダ船が入港するたびに情報を提供することを要求した。情報の提供は翌年寛永18年(1641年)から開始された。これがオランダ風説書である。風説書はオランダ商館長(カピタン)が作り、それを通詞が日本語に直した。後には、ポルトガル・スペインだけではなく、他の<欧州>諸国、インド、清などの情報も記載されていた。・・・
 これに対して、バタヴィアの植民地政庁で作成されたのが、別段風説書であり、1840年から提供が開始された。これは、植民地政庁がアヘン戦争とその影響を幕府に知らせた方が良いと判断したためである。こちらの方はオランダ語で作成され、それを基に日本語に翻訳された。1846年からは、アヘン戦争関係に限らず、世界的な情報が提供されるようになった。その情報源は、<支那>の英国植民地などで発行される英字新聞であった。別段風説書の中で最も有名なものが1852年に提供されたペリー来航に関するものである。本来風説書は秘密文書とされていたが、このペリー来航予告は外部にもれており、幕府関係者以外にも知れ渡っていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E9%A2%A8%E8%AA%AC%E6%9B%B8

 これら四つの異域に接した地を介して、ここで対象とする徳川後期に外交課題とされ、「開国」期の対西洋諸国との問題にも繋がっていったのが、、(イ)国土防衛、(ロ)漂着船取扱・漂流民送還受領、(ハ)通信<(注54)>(聘礼<(注55)>受容)、そして(ニ)通商であった。」(145、147~148)

 (注54)「江戸時代の鎖国体制下で関係を保っていたオランダ・清・朝鮮・琉球4ヵ国のうち、正式な国交のある朝鮮・琉球を通信国と呼び、正式な国交がなく、通商関係のみであったオランダ・清を通商国と呼ぶ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E4%BF%A1%E5%9B%BD
 (注55)「人を招くときの贈り物。」
https://kotobank.jp/word/%E8%81%98%E7%A4%BC-624341

(続く)