太田述正コラム#9733(2018.3.30)
<岸・安倍家三代の凋落記(その3)>(2018.7.14公開)

 (2)本堂/安倍/西村静子

 安倍晋太郎の実父の話をしたので、こちらは初めてですが、実母の話もしておきましょう。
 旧姓本堂の安倍静子(※)の寛との「離婚の原因は家同志のおりあいとのことですので、陸軍軍医監<(注2)>であった妻静子の父と戦争を嫌う寛との関係が原因だったようです。」
https://fx-works.jp/yougo-abe/
という記述を見つけたのですが、仮に彼女が陸軍医監の娘だったとしても、そんなことが離婚原因であった可能性はゼロに近い、と私は思います。

 (注2)「当初、陸軍の軍医総監は少将相当官とされていたが、1897年(明治30年)3月19日に従来の軍医総監(少将相当官)は軍医監(少将相当官)とされ、新たに軍医総監(中将相当官)が設けられた・・・。1937年(昭和12年)2月15日、陸軍軍医総監が陸軍軍医中将と改称された・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%8C%BB%E7%B7%8F%E7%9B%A3#%E9%99%B8%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E5%8C%BB%E7%B7%8F%E7%9B%A3

 その理由の第一は、静子が離婚後に再婚した相手との間の息子、つまり、安倍晋太郎の異父弟の西村正雄(注3)の先の大戦観です。

 (注3)1932~2006年。1955年東大法卒、興銀入行、同銀行頭取を経て、みずほホールディングス会長。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%9D%91%E6%AD%A3%E9%9B%84

 彼は、「・・・<甥の>安倍<晋三>が植民地支配や侵略行為に深い反省の念を表明した「戦後50年の国会決議」に欠席し、村山談話に曖昧な態度をとっていることに懸念を示した。安倍…のタカ派路線の危うさを「偏狭なナショナリズムを抑えるのが政治家なのに、晋三は逆に煽っている」と諌め、「靖国参拝の正当化は国内では通っても、国際的には通用しない」と痛烈に批判し」
https://blogs.yahoo.co.jp/mochimoma/18706213.html
ており、この(私に言わせれば、薄っぺらで、かつ、晋三の「真意」も把握せずして開陳された)戦争観は、母親の前夫であった安倍寛の戦争観と生き写しだからです。
 これは、静子もまた、寛と似たような戦争観を持っていたか、或いは、かかる戦争観を持っていた寛や新夫にこの点で違和感を覚えるような人物でなかったか、のどちらかの可能性を示唆しています。
 もとより、西村正雄が、父ないし母の戦争観とは異なった戦争観を、戦後教育を受けたこと等で身に着けた、という可能性も排除できませんが・・。
 より、決定的な第二の理由は、静子の離婚の時期です。
 寛の工場が灰燼に帰し、彼が創業した会社の倒産がもたらされたところの、関東大震災が起こったのは1923年9月1日であり、第一子の晋太郎が生まれたのは翌1924年の4月29日、そして、寛と静子が離婚したのがその80日後というのですから、7月中旬です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%99%8B%E5%A4%AA%E9%83%8E *
 ということは、静子は、震災より前には、婚姻関係を継続する意思があって晋太郎を懐妊したけれど、震災の結果、(少なくとも一時的には)安倍家が金銭的に著しく逼迫するに至り、それに嫌気がさして離婚した、と見るのが自然ではないでしょうか。
 静子が、このような酷薄な人物であったことは、晋太郎が、「旧制山口中学校<生の時に>・・・母親の再婚を知り、上京して居所を探すも、再会は叶わなかった。」(*)ことや、晋太郎の、8歳下の異父弟の西村正雄との対面が、実に1979年になってからようやく実現したこと
https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1701L_X10C13A6000000/
、すなわち、彼女が、晋太郎を愛おしく思っていた、とか、晋太郎に対して罪の意識を抱いていた、などとは到底考えられないこと、からも明らかでしょう。
 以上の私の見立てが正しいとして、弊履の如く捨てられた、というのに、静子によほど未練があったのではないかとも想像されますが、寛は、その後再婚しないまま生涯を終えるのです。(*)
 そして、寛の一人っ子の晋太郎は、伯母・・晋太郎にとっては大伯母・・のヨシに預けて育てさせるのです。(*)
 このような境遇は、晋太郎に、少なからざる負の影響を与えた、と考えられます。

 (3)安倍晋太郎

 さて、安倍晋太郎本人についてです。
 彼は、「一年間浪人した後、1943年(昭和18年)に岡山県の第六高等学校に入学。翌年9月、わずか1年半で繰り上げ卒業となり東京帝国大学に推薦入学する。同時に海軍滋賀航空隊に予備学生として入隊。太平洋戦争終結後、改称された東京大学法学部に復学、1949年(昭和24年)に卒業し毎日新聞社に入社。」(*)という経歴であり、父親の寛とそっくりであることに驚きます。
 旧制中学の4年生の時から受験できる旧制高校に、事実上2浪して入った上、東大法には(恐らく戦時特例で)無試験で入学し、卒業して新聞記者になったということから、晋太郎もまた、法学部時代の成績は超低空飛行であったと思われます。
 (新聞記者になると、卒業した途端、取材される側の人間になった官僚たる学部同期生達に取材する側の人間として取材に行かされる可能性がある立場になる、ということを考えてもみてください。)

(続く)

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