太田述正コラム#9749(2018.4.7)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その30)>(2018.7.22公開)

 「いわゆる「鎖国」状態とは、・・・「通信」「通商」の相手国をそれぞれ二ヵ国に限定するものである。
 だが、この限定的な対外規定について明文化した幕府文書は、徳川初期には発せられておらず、文化2(1805)年にロシア使節レザノフに申し渡された「往来」の国を規定する「御教論御書付」が嚆矢となった。
 周知の如く、家光時代の寛永期に実施された海禁策の目的は、キリスト教布教に対する政治的考慮に基づいた宗教的不寛容のためであった。
 しかし、文化期に自覚されたそれは宗教規定の問題には一言も触れず、特に「我国歴世封疆を守るの常法」「朝廷歴世の法」として文言に載るのは、通信と対外貿易の限定であった。

⇒(令外官を含むところの)律令法制が形式的には生きていて(典拠省略)、それに、武家諸法度、禁中並公家諸法度、諸宗寺院法度等が加わる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E8%AB%B8%E6%B3%95%E5%BA%A6
という、憲法的なものだけでも複雑多岐にわたった江戸時代の法令群
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%A6%81%E4%BB%A4%E8%80%83
の中に、「鎖国」に係る公式文書が1805年までなかった、というのは、私にとっては、ちょっとした盲点でした。(太田)

 ラクスマン・・・外交施設への・・・対応を指揮した老中松平定信は、宣諭使が松前で使節と折衝した翌月、<1793年>7月23日に老中御役御免となり、また同月に松平乗衡(のちの林述齋<(注63)>)が林家の養子となって家督を相続して、12月には林大学頭に就任している。」(155~156、158)

 (注63)1768~1841年。「父は美濃国岩村藩主松平乗薀、祖父は享保の改革を推進した老中松平乗邑。・・・渋井太室らに師事する。寛政5年(1793年)、林錦峯の養子となって林家を継ぎ、幕府の文書行政の中枢として幕政に関与する。文化年間における朝鮮通信使の応接を対馬国で行う聘礼の改革にもかかわった。柴野栗山・古賀精里・尾藤二洲(寛政の三博士)らとともに儒学の教学の刷新にも力を尽くし、昌平坂学問所(昌平黌)の幕府直轄化を推進した[(1788~97年)](寛政の改革)。
 述斎の学問は、朱子学を基礎としつつも清朝の考証学に関心を示し、『寛政重修諸家譜』『徳川実紀』『朝野旧聞◎<(鍋蓋の下に臼、さらに下に衣の鍋蓋を除いた部分)>藁(ちょうやきゅうもんほうこう)』『新編武蔵風土記稿』など幕府の編纂事業を主導した。和漢の詩才にすぐれ、歌集『家園漫吟』などがある。<支那>で散逸した漢籍(佚存書)を集めた『佚存叢書』は<支那>国内でも評価が高い。・・・岩村藩時代に「百姓身持之覚書」を発見し、幕府の「慶安御触書」として出版した。
 著名な門弟に佐藤一<齋>(同じ岩村藩出身で、生まれながらの主従)・松崎慊堂が<い>・・・る。
 死後は嫡男の林●<(木偏に聖)>宇が林家を継いだ。三男は鳥居耀蔵、六男は林復<齋(既出)>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E8%BF%B0%E6%96%8E
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180406213927.pdf?id=ART0009307069 ([]内)
 鳥居耀蔵は、南町奉行(後に勘定奉行も兼任)として、毀誉褒貶ある「活躍」をしたことで人口に膾炙している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85%E8%80%80%E8%94%B5
 渋井太室(1720~88年)は、「下総佐倉藩(千葉県)藩儒。井上蘭台,林榴岡(りゅうこう)にまなぶ。藩主堀田正亮(まさすけ)・正順(まさあり)の2代につかえ,藩の文教につくす。著作に徳川家康から7代家継までの通史「国史」,「左国通義」など。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B8%8B%E4%BA%95%E5%A4%AA%E5%AE%A4-1080639

⇒林家は、第6代、第7代がどちらも20台でなくなり、また、第6代の時に湯島聖堂の孔子像を祀る費用を林家が「家計に流用していたことが発覚し、これをきっかけに、幕府による林家の粛正と聖堂の学制改革が始まり、のちの寛政異学の禁、湯島聖堂の「昌平坂学問所」への改編、聖堂領の「学問所領」変更などに繋がった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E9%B3%B3%E6%BD%AD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E9%8C%A6%E5%B3%AF ←第7代
とされていて、第7代が「寛政5年(1793年)、27歳で死去<し、>子がなかったため、ここに林羅山から続く血統的家系は断絶し<たことに伴い、>将軍徳川家斉の命により美濃国岩村藩主松平乗薀の三男・乗衡が林家8代となり、林述斎(林衡)と称して林家が再興された。」(上掲)という経緯を辿った、ともされています。
 しかし、林家の不祥事や、林家当主が二代続けて20台で亡くなったこと、そして、7代目に子がなかったことが、譜代大名の子である松平乗衡の林家乗り入れに繋がったというよりは、学問吟味の実施とその準備のための教育を主として幕臣に対して行う機関・・唯一の国立大学と人事院を兼ねたようなもの・・、としての性格を基軸とする、幕府直轄の昌平坂学問所の設立(注64)が計画された結果、その所長予定者として、徳川家の親戚筋という、由緒ある、行政官たる幕臣、しかも、儒学を含む文人としての多彩な嗜みを高度に身に着けた幕臣、を任命し、その際、(昌平坂学問所が、林家の私塾と孔子廟というインフラを引き継いだ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E5%B9%B3%E5%9D%82%E5%AD%A6%E5%95%8F%E6%89%80 前掲
こともあり、)彼に、伝統と権威のある林姓を名乗らせ、形の上で林家第8代当主とした、というのが実態であった、と見るべきでしょう。

 (注64)「寛政元(1789)年松平定信の達によって,番入り選考を励行することとなったことをふまえ,寛政3年から,学問出精ということで,番入りする者が出てきている。 <しかし、>学問出精での番入りは,<第一回の>寛政3年9名,<第二回の>寛政6年3名,<第3回の>寛政11年11名であ<ったところ、>これらは,学問吟味を及第したものとは限らない。・・・
 <なお、>第一回の不首尾の後,林家には述斎が養子に入り,寛政6年の第二回学問吟味が行われた<もの>。・・・
 <その後、>寛政12年の第四回学問吟味・・・での及第者・・・が,昌平坂学問所で教育を受けて学問吟味を受けた最も初期の面々である可能性が高い。」
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180406213927.pdf?id=ART0009307069 前掲
 なお、林述齋が師事した渋井太室・・「ら」は不明・・は、渋井が師事した儒者達
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E8%98%AD%E5%8F%B0-1056008
https://kotobank.jp/word/%E6%9E%97%E6%A6%B4%E5%B2%A1-1102396
から見て、(当然のことながら)朱子学者であり、また、述齋に兵学を学んだ形跡が皆無であること、以上は、多岐にわたる述齋の著作群の中に兵学がらみのものが見当たらないこと、によっても推認できること、を指摘しておきたいと思います。(太田)

(続く)