太田述正コラム#9753(2018.4.9)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その32)>(2018.7.24公開)

 「林大学頭・柴野彦助・尾藤良佐<(注69)>・古賀弥助<(注69)>」の四名は、さらに、閣老の諮問に応えて、「・・・「御尋ニ付申上候書付」を連署で上げている。
 学問所からする交渉方法・返答素案の提案が含まれているが、そこには、二通り可能性が想定されている。
 一つは、ロシア使節から、書翰や「信物」を受領しない場合であり、もう一つはそれらを受領した場合である。

 (注69)寛政の三博士=寛政の三助。「寛政年間 (1789~1801) ,江戸幕府の学制改革の中心となった3人の朱子学者のこと。諸政の改革に着手した老中松平定信は,諸学の分立抗争の弊を正すため,柴野栗山 (彦輔) ,岡田寒泉 (清助) ,尾藤二洲 (良佐) を湯島聖堂の儒官とし,大学頭林信敬を助けて寛政異学の禁を実行し,朱子学による学問思想の統制にあたらせた。信敬の没後は述斎が大学頭となり,定信の引退後は古賀精里 (弥助) が寒泉の後任となり,栗山,二洲とともに聖堂を中心とする幕府の学制の改革をはかった。これにより,それまでの林家の私学的傾向の強かった聖堂は昌平坂学問所,幕府の官学として確立され,朱子学は幕府の正統的教学としての位置を確固たるものにした。諸藩も漸次これにならうようになり,「異学の禁」はその目的を達成しえた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AF%9B%E6%94%BF%E3%81%AE%E4%B8%89%E5%8D%9A%E5%A3%AB-49037
https://kotobank.jp/word/%E5%AF%9B%E6%94%BF%E3%81%AE%E4%B8%89%E5%8A%A9-470431
 血筋を受け継いでいただけの林信敬も、突然、林家の人間とされた述齋も、寛政の名儒の中にカウントされていないことは、当然と言えば当然だが、銘記すべきだろう。
 この二人は、どちらも、単なる、聖堂/学問所の管理者(行政官)なのだ。

 ただし、学問所関係者たちは、「私共打寄申談、再三相考候所」前者よりは後者の「手之順」がよく、「彼方<(レザノフ側(太田))>ニ而も承服」されるだろうと記す。・・・
 <しかし、>幕閣<(注70)>での政策決定の結果、じっさいには、学問所儒者たちの推薦策ではなく、国書・信物を受納しない政策・・・<の方>が実施された。」(166~167)

 (注70)「老中<の>・・・定員は4人から5人で、普段の業務は月番制で毎月1人が担当し、江戸城本丸御殿にあった御用部屋と呼ばれる部屋を詰め所・執務室とし、重大な事柄については合議した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E4%B8%AD

⇒この時期の老中達は、「戸田氏教(1790年 – 1806年)、牧野忠精(1801年 – 1816年、1828年 – 1831年)、土井利厚<(注71)>(1802年 – 1822年)、青山忠裕(1804年 – 1835年)」(上掲)の4名であったはずですが、レザノフの邦語ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%B6%E3%83%8E%E3%83%95 前掲
では、土井利厚の月番の時だったということでしょう、典拠付きで担当老中を土井とし、「土井はレザノフに「腹の立つような乱暴な応接をすればロシアは怒って二度と来なくなるだろう。もしもロシアがそれを理由に武力を行使しても日本の武士はいささかも後れはとらない」と主張した」(上掲)、としています。
 
 (注71)1759~1822年。「下総古河藩第3代藩主。土井家宗家10代。摂津尼崎藩主・松平忠名の四男。・・・寺社奉行、京都所司代、老中などの重職を歴任し、1万石の加増も得た。土井家から老中が出たのは利房以来のことであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BA%95%E5%88%A9%E5%8E%9A

 眞壁は、「幕閣」という曖昧な表現ではなく、土井利厚、と、個名を記すべきでした。
 とまれ、この時の土井の言からしても、結論は最初から決めていたのだけれど、既に3度も上書してきた述齋に再度顔を立てざるをえなくなり、重ねて、形の上で諮問をしただけだ、と私は見ています。(太田)

(続く)