太田述正コラム#0614(2005.2.1)
<武士道・騎士道・慈善>

1 始めに

以前、コラム#173に関し、私のHPの掲示板上のやりとりで、「李登輝台湾前総統の武士道礼賛等は大変結構なことですが、彼・・はあくまでも外国の政治家であり、その裏にある冷徹な計算を忘れてはなりません。私は李登輝前総統の米国における言説をちょっと調べてみたことがありますが、そこではもっぱら自分がクリスチャンであることをキャッチコピーにして話をされており、武士道の武の字も、(そして当然のことながら、日本の台湾統治の「すばらしさ」についても)一切言及がありませんでした。」と述べたことがあります。
また、コラム#182において、「武士道について言えば、縄文モードの武士道、すなわち土着勢力たる蝦夷(エミシ)の武士道なのか、弥生モードの武士道、すなわち渡来勢力たる貴族=武士の武士道なのか・・、そこまで遡らないとしても、それぞれこの二つの武士道の系譜をひくと考えられるところの、在野武士道(中世に由来し、一味同心たる君臣という考えの下、情・実を重視。禅宗と親和性あり。教科書は山本常朝の「葉隠」)と公定武士道(江戸時代に由来し、知・法を重視。儒教と親和性あり。教科書は<クリスチャンの>新渡戸稲造の「武士道」)があり、両者は相当異なる代物なのですが、李氏の眼中には後者の武士道しかないように見受けられます。」と述べたこともあります。
 本格的な武士道論の展開は他日を期すとして、昨日、TV朝日のお昼の報道番組で、今度は李登輝前総統のようなかつての日本人ならぬ現役の日本人である作家の中西礼さんが、「武士道と騎士道の違いは戦いだけでなく慈善活動も重視するかどうかであり、慈善団体でもあったテンプル騎士団は後者の典型だった。この違いが、現在の慈善活動を重視する欧米の市民としない日本の市民の違いをもたらした」という趣旨の一知半解の話をされたことに呆れ、武士道の騎士道との違いに関する私見の一端をご披露することにしました。

2 騎士道と慈善活動

 (1)一般の騎士
 欧州(イギリスを含む)の一般の騎士達がクリスチャンであり、その少なからざる部分が十字軍や北欧十字軍、あるいはイベリア半島でのレコンキスタに参加してキリスト教世界の失地回復・拡大に貢献したことは事実ですが、彼らが慈善活動を重視した、という話は聞いたことがありません。

 (2)テンプル騎士団
 では、中西さんの口にしたテンプル騎士団はどうだったのでしょうか。
 テンプル騎士団(The Knights Templars)は、12世紀に結成された騎士団(military orders)であり、その目的は、僧兵(修道僧兼戦士)として、十字軍によって設けられたエルサレム王国を始めとするキリスト教世界をイスラム教勢力から防衛することでした。その背景には欧州中世特有のキリスト教信仰への熱狂と軍事的強大さへの憧憬がありました。
 テンプル騎士団の騎士達は、欧州の一般の騎士達と比べて極めて特異な存在でした。
 彼らは、敬虔な修道僧(ただし例外的に妻帯を許されていた)であるとともに勇猛果敢な戦士でもあり、イスラム教勢力との戦いの先頭に立ち、捕虜になっても決してイスラム教に改宗せず、(一般の騎士のように)身代金も払わなかったため、戦死したり捕虜になって殺される者が続出しました。(騎士団の方も、イスラム勢力の捕虜をすべて殺害しました。)結成から二世紀の間に20,000のテンプル騎士団の騎士や従者(serjeant)がこうして命を落としたのです。
 テンプル騎士団は、法王に直属し、法王によって教会税を含むあらゆる税金を免除され、欧州全域から金品や荘園を寄進され、13世紀には9,000箇所もの荘園を保有するとともに、法王庁や欧州各地の王族・貴族を対象に銀行業(保管料をとって金を預かったり、教会の教えに反して事実上利子(しかも高利)をとって金を貸したり、「紙幣」を発行したりした)を営み、巨万の富を蓄えます。
 富によって次第に規律が弛緩してきていたところを、テンプル騎士団が本部を置いていたフランスの端麗王フィリップ4世(Philip the Fair。1268??1314年)・・戦費がなくて困っていた・・に、その富を狙われ、1307年から7年間、騎士団の最高指導者(Grand Master)を含む在フランスの騎士団員全員が異端審問に付され、最終的にこの最高指導者を含む多くの団員が焚刑に処せられ、フランス内の同騎士団の全財産は没収され、ここにテンプル騎士団は事実上壊滅するのです(注1)。

 (注1)フランスでの動きを受けて、法王インノケンティウス(Innocent)5世は、欧州全域で異端審問を行わせたが、フランス以外ではおおむねテンプル騎士団は無罪とされている。ちなみに、フィリップもインノケンティウスも最高指導者の焚刑から余り時間を置かずに死去しており、最高指導者の呪だと噂された。

 テンプル騎士団の説明が長くなりましたが、この騎士団が慈善活動も行っていたことは事実です。例えば、キプロスのテンプル騎士団支部に関し、騎士団で焼いたパン等の十分の一を慈善活動に喜捨していた、というキプロスでの異端審問時の団員証言があります。
(以上、http://www.newadvent.org/cathen/14493a.htmhttp://www.templarhistory.com/accuse.html、及びhttp://www.templarhistory.com/who.html(いずれも2月1日アクセス(以下同じ)による。)
しかし、団員は修道僧でもあるのですから、慈善活動も行うのは不思議でも何でもありませんし、そもそも十分の一というのは、すべての税金を免除されていた騎士団として、教会税である十分の一税相当分くらいは慈善活動に投じざるをえなかった、ということであったに違いありません。

(3)聖ヨハネ騎士団
中西さんが、テンプル騎士団の結成から間もなく結成された聖ヨハネ騎士団(Hospitallers of St. John of Jerusalem。1309??1522年はKnights of Rhodes、1530年以降はKnights of Malta、とも呼ばれる)とテンプル騎士団とを混同された可能性もあります。
聖ヨハネ騎士団は、その名前Hospitallersが示しているように、エルサレムへのキリスト教巡礼者への宗教的な無料施療院活動から始まり、後に巡礼への護衛活動、更にはテンプル騎士団と同様の活動へと活動領域を拡大して行き、エルサレムがイスラム勢力に奪還されてからは、キプロス、ロードス、マルタと拠点を後退させつつイスラム勢力との戦いを続け、ナポレオンに敗れてからは、事実上活動を停止し、現在はローマに本拠をかまえ各国で施療活動を行う慈善団体として存続しています。
この騎士団が軍事活動も行うようになったのは13世紀に入った頃であり、その時からロードス島に拠点を移した14世紀初頭までの約1世紀の間、この騎士団が施療(慈善)活動と軍事活動をともに行っていたことは事実です。(ただし、慈善活動を担当する騎士と軍事活動を担当する騎士は全く別でした。)同騎士団は、それ以前は施療(慈善)活動しか行っていませんでしたし、それ以降(つまりロードス時代以降)は、(施療活動は騎士団員を対象としたものに限られるようになり、)事実上軍事活動だけしか行わなくなりました(注2)。

(注2)聖ヨハネ騎士団は、軍事活動を始めてからはテンプル騎士団とことごとに競い合い、そのマネをした結果、14世紀までにはテンプル騎士団と瓜二つの騎士団となり、1万3,000箇所の荘園の保有を誇るに至る。そして14世紀初頭には、上述したような事情で痛めつけられたテンプル騎士団を吸収し、その後長い時代を経て軍事活動を放擲し、設立当時の施療(慈善)活動だけの姿に戻り、現在に至っている。
    私は1988年の英国「留学」の時の夏休みに家内とギリシャ旅行に出かけ、その折ロードス島を訪れ、聖ヨハネ騎士団の本拠の城跡見学等をしたことがあるが、同騎士団の施療(慈善)活動の話など、全く耳にした記憶がないし、それらしき展示を見た記憶もない。

このような聖ヨハネ騎士団の歴史のうち、約1世紀だけを取り出して、騎士道が慈善活動を重視していた根拠にする、というわけにもまたいきそうもありません。
(以上、http://kino-p.keddy.ne.jp/history/2001_07_18.htmlhttp://www.newadvent.org/cathen/10304d.htm、及びhttp://www.newadvent.org/cathen/07477a.htmによる。)

3 武士道と慈善活動

 (1)日本における慈善活動の歴史
 武士道と慈善活動について語る前に、日本でも昔から慈善活動が行われてきた、ということをまず指摘しておきたいと思います。
 日本における慈善活動は仏教伝来とともに始まったと考えられ、少なくとも聖徳太子が四天王寺に建てた悲田院(貧窮者や孤児の救済施設)に遡ります。723年には興福寺内に施薬院とともに悲田院が建てられ、730年には皇后官職に施薬院が置かれるとともに光明皇后の発意で左京・右京に悲田院が建てられました。平安京でも東西に箇所に悲田院があり、1573年に信長上京焼き討ちで焼失するまで存続しています。(しかも、その後再建されています。)
また、江戸時代に入ってからは、享保の改革の際、1722年に江戸の小石川御薬園内に無料療養施設である施薬院(小石川養生所)が設けられていますし、18世紀後半の寛政の改革の際には、人足寄せ場(江戸の石川島にもうけた浮浪人の収容所であり、刑期を終えても引き取り人のない者や無宿人を強制的に収容し、公共事業に従事させた)が設けられています。
(以上、http://www31.ocn.ne.jp/~john/home/sen/hiden/hiden.htmhttp://www.geocities.jp/minami_zatugaku/vol_140.htm、及びhttp://db.gakken.co.jp/jiten/na/405850.htmによる。)

(2)武士道
 さて、武士道は慈善活動など顧みないのでしょうか。
そんなことはありません。
武家政権であった江戸幕府が行った慈善活動は上記の通りですし、明治の初期においても、企業家による慈善活動が活発に行われたのは、その多くが武士階級出身であった企業人が、利益よりむしろ公益を重んずる武士道を身につけていたからだ、という指摘が海外の研究者からなされています(http://www.zenkaiken.net/kaiho/55.htm)。

(3)現在の日本
現在、日本の一般市民の間で慈善活動が活発でないのは中西さんのお話の通りですが、これは戦後の税制に問題がある(寄付控除が不十分であり、かつ累進課税の導入で富裕な個人が慈善活動やメセナ活動ができなくなった)ほか、吉田ドクトリンの墨守によって武士道精神が瀕死の状況に陥っているためではないか、と私は考えています。

4 最後に

 欧州の騎士道は、キリスト教と密接不可分な関係にありました。だからこそ、一般の騎士達は十字軍等に参加し、騎士団は修道僧兼戦士としてキリスト教世界防衛・拡大の第一線に立ったのです。
 それに対し、日本の武士道は、禅の素養(や一部には儒教の素養)が尊重はされましたが、特定の宗教(や教義)とは無関係に、純粋に公のために尽くすことを説き、大部分の武士はこの武士道精神に則って心身を鍛練し、身を処すことに心がけました。
 騎士道と武士道は、武を貴び死を恐れず、信義を重んじるという点では似ていますが、騎士道がプロト欧州文明における支配階級のイデオロギーに他ならなかったのに対し、武士道は階級を超え、時代を超え、文明を超える潜在性を持つ倫理観です。
 武士道を矮小化したり、いわんや卑下したりすることなく、新渡戸の「武士道」を超えるより普遍性のある武士道論を提示することこそ、21世紀において日本人ができる世界に対する最大の貢献の一つではないか、と私はかねてから考えているのです。
 そのためにも日本において、吉田ドクトリンの一日も早い克服が待たれるところです。

<読者1>
 いつも楽しく読ませていただいております。
 2月1日発行のメルマガにて今まで疑問に思っておりましたことが解決出来有り難うございました。
 今後のますますのご活躍をお祈り致します。

<読者2>
>作家の中西礼さんが、「武士道と騎士道の違いは戦いだけでなく慈善活動も重視するかどうかであり、慈善団体でもあったテンプル騎士団は後者の典型だった。この違いが、現在の慈善活動を重視する欧米の市民としない日本の市民の違いをもたらした」という趣旨の一知半解の話をされたことに呆れ、・・

 中西さんは小説確か『赤い月』の中で、纏足が満洲族の慣習だと書いていたので、呆れたことがあります。彼は滿洲生まれと聞いていますが。