太田述正コラム#9777(2018.4.21)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その44)>(2018.8.5公開)

 「<但し、>●庵は・・・西洋をいわゆる華夷秩序の枠組みで捉え、野蛮視し一方的に夷狄の排斥を説く攘夷論に与しているわけではなかった。・・・
 なぜなら、●庵にとって欧州諸国は、その軍事的な脅威のゆえに「侮蔑すべからざる」存在であり、その上「仁義道徳」の観点からは一方的な攘夷は日本の道徳的優位性を傷つけ、外国に「無道之邦」と見なされることになるからであった・・・。

⇒●庵の危機意識は不十分であった、と言わざるをえませんね。(太田)

 ●庵の世界観で重要なのは、このように世界的な覇権を拡大させる欧州諸国ばかりでなく、その結果抑圧され植民地化された「亜米利加」「亜弗利加」「印度」「海南諸島」の国々にも視線が向けられ、「海防臆測」の中で頻繁に言及されることである。・・・
 アメリカが・・・植民地化された原因は、・・・軍事力の不足にあるが、その根本的な原因を、●庵はアメリカが「聖賢を生ま」なかった・・・ことに求める。・・・
 この点ではアフリカも同様だった・・・。
 アメリカばかりではなく、たとえばイギリスに侵略されたムガル帝国についても、・・・「聖賢」を出だすことが出来るか否かに、独立回復の成否がかかっているとする。・・・
 だが他方で、●庵はこの「聖賢」の輩出如何にかかわらず、被侵略国の抵抗運動は必然的なものと考えていた。
 欧州諸国の侵略による虐殺が激しいゆえに、恨みを買い、その勢いは必ず逆に侵略国への抵抗を生むであろう。・・・
 このような植民化された国々での抵抗運動は、「古今の定理」によって「勢ひの必ず至る所」とされた。・・・
 「亜細亜」という概念それ自体西洋産の地理書に依拠しているが、これまで数々の「聖哲」を生み出してきたアジアが、植民地となって欧州列強に服していくことは、●庵には「恥」と捉えられた。・・・

⇒「聖賢」を輩出させていようといまいと、「泰西」諸国にそれ以外の地域や諸国は植民地化されて行ったわけであり、●庵は無内容な文章を連ねているだけだ、と言うべきでしょう。(太田)

 <この>●庵の見解は、彼が「聖」人を儒学の古代中国の聖人のみに限定しなかったこと<を>意味してい<る。>・・・
 <以上からも分かるように、>西洋近代を頂点とする<文明--半開--野蛮>の文明発展史観が日本社会に受容されていくことになったのは、●庵の没後、19世紀の西洋産地理書が、福澤諭吉の「唐人往来」<(注100)>(慶應元[1865]年)・『世界国尽』<(注101)>(明治2[1869]年)や内田正雄<(注102)>『輿地誌略』(明治3~8[1870~75]年)の典拠となって紹介されてからである。

 (注100)「諭吉の自由主義的徹底開国論が宣伝されている『唐人往来とうじんおうらい』は、「江戸鉄砲洲てっぽうず某」の匿名で、しかも版行されず写本として、幾分流布されたのみであった。」
https://furigana.info/w/%E5%94%90%E4%BA%BA%E5%BE%80%E6%9D%A5
 (注101)「世界地理の入門書である。地理以外に、その国の歴史を説明している箇所もある。・・・
 序文<の中で、>・・・「合衆国ニウヨルク州のワルプランク氏」の文章を飜訳して<紹介し>ている。・・・
 <また、欧州>の繁栄ぶりを強調し・・・<このように>文明開化<したのは、>・・・学問が根本にあるとして<いる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%9B%BD%E5%B0%BD
 (注102)1839~76年。「幕臣<の子。>・・・剣術家としても知られていた。・・・昌平黌、長崎海軍伝習所で学び、文久2年(1862年)にオランダ留学。明治維新後、大学南校で教える。
 官版世界地理書『輿地誌略』を刊行し・・・<、この書は、>福澤諭吉の『学問のすゝめ』や中村正直の『西国立志編』と並んで明治の三書と称されるベストセラーになり、当時の各府県の小学校、師範学校の教科書としても用いられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%94%B0%E6%AD%A3%E9%9B%84

⇒維新直後の日本における教養モノのベストセラー(「注102」)が、いずれも、旧幕臣によって上梓されていることを記憶にとどめておいてください。(太田)

 ●庵が経験することがなかったこの思想的課題は、●庵の門人阪谷朗廬<(注103)>ら儒学的知識人によって、産業革命の成果を享受し始めた文明開化の明治初期に、展開されることになったと云えるだろう。」(276~278)

 (注103)さかたにろうろ(1822~81年)。「1822年、備中国・・・で、代官所に勤めていた<非武士>の三男として生まれた。・・・大塩平八郎<や>・・・古賀●庵に師事した。・・・
 1868年に広島藩から藩儒、藩学問所・・・主席教授として迎えられるが、1870年に廃藩置県で辞職。・・・明治政府の陸軍省に入省。その後文部省、内務省などの官職を歴任した。また福沢諭吉らとともに明六社に参加、唯一の儒学者として活動した。・・・
 渋沢栄一<は>朗廬に師事した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E8%B0%B7%E6%9C%97%E5%BB%AC

⇒欧州のどんな地理書が日本に紹介されていたかとは無関係に、要は、幕臣達・・福沢も中津藩士から事実上幕臣に取り立てられていました(諭吉のウィキペディア)・・の世界観が、朱子学事大主義という形での支那事大主義から、黒船の来航を契機に、欧州事大主義・・就中、諭吉に典型的に見られるような米国事大主義・・へと幕末に概ね一斉に転換していった、というだけのことである、というのが私の見解です。
 かかる事大主義的思考を幕臣達の間で形成したものこそ、昌平坂学問所における教育研究であった、とも。
 そして、古賀●庵は、その過渡期における、支那事大主義への疑問提示者、という立ち位置でよろしいのではないか、と思うのです。(太田)

(続く)

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