太田述正コラム#9779(2018.4.22)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その45)>(2018.8.6公開)

 「田原藩年寄役末席として藩の海岸懸りを兼務し、海防の情報入手のために蘭学を学んだ<渡邉(渡辺)>崋山<・・彼は、>蘭学者たちや西洋人と直接交流があり、●庵以上に新しい多くの翻訳本に接することができた<・・>は、それだけ西洋の技術力のみならず政治体制や政治文化についても造詣が深く、西洋の文明社会との質的隔絶性を道義的な観点からの批判ではなく、技術の発達を可能にした社会的条件まで視野に入れて認識することができた。・・・
 <思うに、>●庵とは対照的にヨーロッパ社会への理解が深いほど、崋山は日本の対外的独立を維持するという問題に対して悲観的にならざるを得なかったのではないか。・・・
 <また、崋山は、>●庵に比して被植民地諸国への関心が低く、そこでの抵抗運動やその可能性に対しては殆ど関心を示していない。・・・
 <それは、>崋山の西洋認識の深さ<が>、西洋近代文明に一元化されたイギリス産の<文明--半開--野蛮>の文明史観に接することがなかったにも拘わらず、軍備という西洋の物質的側面ばかりでなく、教育制度や「議論」などの社会制度の側面にまで着目し、西洋の文明社会に含まれる普遍的契機を見据えていたことにある。
 他方の●庵にとっても西洋諸国は「遠略」が可能な程に「物理」を窮め、「威」であるという軍事的側面での目標だったが、結局、西洋の社会や文化がもつ普遍的契機に開眼することはなかったのではないだろうか。」(279~281)

⇒「<崋山は、>田原藩士<で>・・・儒学(朱子学)を学び、18歳のときには昌平坂学問所に通い佐藤一斎から教えを受け、後には松崎慊堂からも学<び、>」「紀州藩儒官遠藤勝助<(注104)>が設立した尚歯会(注105)に参加し<、>」「自身は蘭学者ではないものの、時の蘭学者たちの指導者的存在であ<ったところ、>」「自身は開国論を持っており鎖国・海防に反対だった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%B4%8B%E5%B1%B1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%9A%E6%AD%AF%E4%BC%9A ([]内)
というのですから、尚歯会の何たるか(下掲の「注105」)も踏まえればなおさらのこと、崋山は、眞壁が言うような蘭学者としてではなく、朱子学を身に着けていたところの幕府系の人物の一人として、西洋諸国の軍事力(そのよってきたるゆえんを含む)に対抗するすべはないとの、幕府の開国論の理論的裏付けを(結果として)提供した者達のうちの一人であった、と言うべきでしょう。

 (注104)遠藤鶴洲(1789~1951年)。「終生<紀州藩>江戸藩邸にあって留守居物頭格,藩校明教館の督学などをつとめる。」
https://kotobank.jp/word/%E9%81%A0%E8%97%A4%E9%B6%B4%E6%B4%B2-1059302
 (注105)「構成員は高野長英、小関三英、渡辺崋山、江川英龍、川路聖謨などで、シーボルトに学んだ鳴滝塾の卒業生や江戸で吉田長淑に学んだ者などが中心となって結成された。当初は天保の大飢饉などの相次ぐ飢饉対策を講ずるために結成されたといわれる。・・・主宰の泰通は儒学者であり、蘭学に限らない、より幅の広い集団であったようである。・・・
 尚歯会で議論される内容は当時の蘭学の主流であった医学・語学・数学・天文学にとどまらず、政治・経済・国防など多岐にわたった。
 一時は老中・水野忠邦もこの集団に注目し、西洋対策に知恵を借りようと試みていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%9A%E6%AD%AF%E4%BC%9A
 なお、吉田長淑(1729~1824年)は、幕臣の子で、漢方医、蘭方医、蘭学を学び、日本初の西洋内科医として開業する傍ら、私塾を開いた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E9%95%B7%E6%B7%91
 ちなみに、高野長英は蘭学者で医師・蘭学者で水沢藩士、小関三英は蘭学者で<和泉国岸和田藩医となり、のち幕府の天文方阿蘭陀書籍和解御用、すなわち翻訳係とな<った人物>>、江川英龍(太郎左衛門)は幕臣で伊豆韮山代官、勘定吟味役を歴任した人物、そして、川路聖謨は幕臣で[勘定吟味役、佐渡奉行、小普請奉行、大阪町奉行、勘定奉行などの要職を歴任した<人物>]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%87%8E%E9%95%B7%E8%8B%B1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%96%A2%E4%B8%89%E8%8B%B1 (<>内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%B7%9D%E8%8B%B1%E9%BE%8D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E8%B7%AF%E8%81%96%E8%AC%A8 ([]内)

 これに対し、●庵は、基本的に、西洋諸国の軍事力(そのよってきたるゆえんを含む)を甘く見たところの、鎖国維持論者であった、と見るわけです。
 要するに、●庵も崋山も、どちらも、日本の知識人達の多くが支那から西洋へ事大対象を乗り換えつつあった過渡期、における幕府系知識人であったところ、●庵に比べて、崋山の方が、より積極的に事大対象乗り換えの必要性を感じていた、という整理でいいのではないでしょうか。(太田) 

(続く)