太田述正コラム#9791(2018.4.28)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その51)>(2018.8.12公開)

 「木村喜毅<(注118)>(よしたけ)・・・は、天保9年から慶應3年までの幕末史を扱った『三十年史』を・・・1892年に・・・出版するが、そこには・・・

 (注118)木村芥舟(かいしゅう。1830~1901年)。「旗本(幕臣)。・・・林▼宇に師事して学<ぶ。>・・・
 幕府海軍軍制取締、浜御殿添奉行、本丸目付、長崎海軍伝習所取締、軍艦奉行、勘定奉行等幕府の要職を歴任。咸臨丸の総督を務め、明治維新後は完全に隠居し、福澤諭吉と交遊を重ねて詩文三昧の生活を送った文人である。
 <最初の>軍艦奉行<時代に>・・・初の国産蒸気式軍艦「千代田形」の建造を開始(完成は5年後の慶応3年(1867年)・・・)。<更に、米国>とオランダに軍艦計3隻(富士山丸、東艦、開陽丸)を発注する<と共に>・・・当初、留学先には<米国>を予定していたが南北戦争勃発により果たせなかった<ところ、>・・・9名の留学生をオランダに派遣。・・・<また、>日本周辺海域を6つに分割し、それぞれの海域防備を担当する艦隊を江戸・函館など6箇所に配置する構想をもっていたが、幕府首脳には必要な艦船の調達と人員の育成に時間がかかるとの理由で却下される。また海軍に優秀な人材を集めるため、身分によらない人材登用と西洋の軍隊を模した階級・俸給制度の導入を建議したが、これも身分制度の崩壊を懸念する幕府首脳には受け入れられなかった。こうして文久3年(1863年)9月・・・、失意の内に軍艦奉行の職を去ることになる。・・・慶応2年(1866年)、再び軍艦奉行並となり小栗忠順・勝海舟らと共に海軍の組織整備を進め、翌慶応3年には幕府海軍に西洋式の階級・俸給制度が導入され、近代海軍の基礎が創られた。・・・
 渡米の際、木村は咸臨丸の乗組員たちが西洋の軍人に対して見劣りがしないように、士分の者には加増、それ以外の者達にも相応の俸給を幕府に要望したが受け入れられなかったため、家財を処分して3千両の資金を捻出してこれに充てた。幕府からも渡航費用として5百両を下賜されたが、これには殆ど手を付けず、帰国後に返還している。・・・
 <この時同行した>福澤<諭吉>は・・・維新後に収入の無くなった木村家を援助し続けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E8%8A%A5%E8%88%9F

 ・・・世の所謂巨儒と稱する者の徒に舊法に拘泥し、概ね外國を視て夷狄禽獸となし、虚勢を張り空擧を攘(はら)け、膺懲撻伐 (たつばつ)之典を唱ふる・・・、又當時之有司變通之道に暗く祖制の易へかたきを知て、邊防制術に至てハ茫然手を束ねて一策なきは抑何せん・・・

 <とあり、>黒船来航の際に、老中阿部以外には、幕臣・儒者ら「当時之有司」「巨儒」はみな、世界情勢の把握において、「舊法に拘泥し」「變通之道」を知る者はなく、防衛政策を構想できず、あるいは「夷狄禽獸」の外国観しか抱けなかった<、としている>。・・・

⇒いくら正論でも、その時々の政治や財政情勢への配慮抜きのものは愚論でしかありませんし、南北戦争(1861~65年)中の米国に留学生を送り込もうとしたり、それなら英国にすべきなのにオランダにしてしまったり、やはり英国に発注すべきなのにオランダに軍艦を発注したり、と国際情勢無知ぶりを曝け出したことも併せ、幕臣時代の至らなかった自らも見つめ、反省し、木村は、かかる記述を行った、というのが私の見立てです。(太田)

 明治中期までに広く定着した・・・幕府の・・・イメージは、一般にこのようなものであった。・・・)
 <これは、>まったく誤りであるということはできない。
 しかし、・・・事態は決してそれほどに単純ではなかったことがわかる。・・・
 <現に、>徳川幕府の「外國事務衙門」(外国方)に在職して<いた>・・・田邊太一<(注118)>(蓮舟、1831~1915)<が、>・・・1898(明治31)年に・・・上梓し<た>・・・『幕末外交談』において、・・・「幕府全く人なきにあらざるの實を示」すために引用するものこそ、他ならぬ昌平坂学問所儒者、古賀謹一郎(謹堂・茶渓)の上書であった。」(315~316、319)

 (注118)「天保2年(1831年)、儒学者で幕臣の田辺誨輔(石庵)の次男として生まれる。18歳で昌平坂学問所(昌平黌)に学び、優秀な成績を収めて甲府徽典館教授となる。安政4年(1857年)、長崎海軍伝習所に第三期生として学ぶ。安政6年(1859年)、幕府外国方に召し出され、書物方出役となり、・・・横浜開港事務に関わる。・・・
 幕府の外交文書を集成した『通信全覧』(全319巻)を編纂。・・・
 <維新後、外交官等、>能吏として活躍した一方、派手好みな性格でもあり、若いころより芸人が家にいりびたるなど、市川團十郎や三遊亭圓朝らを麹町(一番町)の自宅に招き、豪華な宴を催すなどしたため、没した時も財産は残らず、借金が残ったという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E8%BE%BA%E5%A4%AA%E4%B8%80
 「田<邊>石庵<(1781~1857年)は、>・・・昌平黌教授となり,甲府徽典館(きてんかん)学頭もつとめた。」
https://kotobank.jp/word/%E7%94%B0%E8%BE%BA%E7%9F%B3%E5%BA%B5-1090266

⇒儒学にのめり込んだ父親を持ち、昌平坂学問所で学び、自らも儒学にのめりこんだ過去のあった田邊が、官儒の名誉回復を期して、無理やり古賀謹堂を持ち上げて見せた、と私はふんでいますが、眞壁の言い分を一応聞いてみましょう。
 いずれにせよ、幕末において、謹堂以外の幕府儒官達、ひいては全幕臣・・但し、生粋の幕臣の話であり、そうでないところの、(中津藩出身の)福沢諭吉
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89
や(豪農出身の)渋沢栄一
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80
らを除く・・中に、(私見では、ここでは立ち入らないが、小栗忠順
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A0%97%E5%BF%A0%E9%A0%86
(上出)を除き、)「人なき」ことは、これで確定したようですね。(太田)

(続く)