太田述正コラム#9831(2018.5.18)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その71)>(2018.9.1公開)

 「応接掛内部での勘定系と目付系の組織的な対立を、古賀謹堂は、第一回の会談に向かう長崎への旅上で眼にすることになった。・・・
 <それは、>応接掛の目付・・・荒尾成允<(注156)>・・・と勘定奉行川路、そしてそれぞれの「属吏」・・・が、「拒虎容狼」の如くに反目し合う光景である。・・・

 (注156)しげまさ(?~1851年)。「旗本。・・・父は江戸町奉行だった荒尾成章。文政3年(1820年)12月小納戸となり、文政12年小姓、嘉永4年12月小姓頭取となる。嘉永5年(1852年)5月に目付・海防掛兼帯となり、嘉永6年8月にはロシア使節応接掛兼帯となりプチャーチンと接した。安政元年(1854年)5月長崎奉行に就任し、翌2年4月<英>使節スターリングと会談し、同年9月オランダ商館長ヤン・ドンケル・クルティウスと日蘭予備約定に調印した。安政3年9月アロー号事件が起こるとクルティウスに事件の詳細を聴取した上で翌4年2月に幕府に報告している。同年5月勘定奉行次席となり、同年8月水野忠徳・岩瀬忠震等と日蘭追加条約調印ならびに日蘭和親条約推進書の交換の席に参加した。また同月ロシア使節プチャーチンと日露追加条約の商議を重ねて、翌9月に条約に調印をした。安政6年9月小普請奉行となり、同11月本丸普請掛となる。万延元年12月田安家家老となり、在職中に没した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E5%B0%BE%E6%88%90%E5%85%81

⇒登用された年がわずか2年早いだけの、しかも、ノンキャリで、その上、御家人株を買って武士になった父親を持ち御家人から旗本に昇格した川路が全権であり、その「部下」にさせられたところの、ばりばりの旗本の家に生まれたキャリアの荒尾が面白くなかったことは想像に難くありません。
 というか、それだけのことだったのではないでしょうか。(太田)

 <また、>下田会議に先立って謹堂は、筒井◎渓から、「漢文翻訳を主ニ致」し、交渉の際に「談る等致間敷」き旨、職務内容の限定を受けた。・・・
 長崎会談で、川路との間に対外政策をめぐり間隙を生じていたのであろう。
 謹堂は云う。
 川路は悪才多く、他人への誹謗の計画を策し、応接掛の立場を利用して交渉の席上で罪を犯している。
 賓客の接待を掌る官吏が、言葉を賤しめ、外交交渉における従来の伝統を変えてしまう。
 それに対して私は社会の根本、それを再びさかんにしようとしているのだ。
 外交における国事を<ふみにじ>って、その後どうしようというのか<、と。>」(461~462)

⇒当時、筒井は大目付格で、川路は勘定奉行兼海防掛だった(それぞれのウィキペディア)ので、、大目付と勘定奉行の格の違い・・微妙ですが・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9B%AE%E4%BB%98
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%98%E5%AE%9A%E5%A5%89%E8%A1%8C
からして、この二人の全権は、形式的には、筒井が首席、川路が次席であったと思われますが、職掌からすると、実質的に交渉に当たったのは川路であったと思われる(注157)ところ、この二人・・目付系と勘定系!・・の間で確執がなかったようである以上、後はどうでもいいように思います。(注158)

 (注157)「川路はプチャーチンのことを「軍人としてすばらしい経歴を持ち、自分など到底足元に及ばない真の豪傑である」と敬意をもって評している。なおプチャーチンも報告書の中で、川路について「鋭敏な思考を持ち、紳士的態度は教養ある<欧米>人と変わらない一流の人物」と評している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%B3
ということから、少なくとも、プチャーチンは、川路が首席だと認識していたようだ。
 (注158)「<幕府は、>幕末期、外国との会談・交渉の際に、目付を同席させたが、その際に目付の職務を説明した所、「目付とはスパイのことだ。日本(徳川幕府)はスパイを同席させているのか。」という嫌疑を受けた。嫌疑を晴らすため、幕府は諸外国の職務で目付に相当するものを探し、ローマ時代の官職である、・・・ケンソル・・センソール<とも>・・日本語では監察官と訳される・・を見つけた。万延元年遣米使節で小栗忠順が目付として赴いた際には「目付とはCensorである」と主張して切り抜けたという。」
http://shinsokyumei.blogspot.jp/2016/02/blog-post.html

 実際、「注157」からも分かるように、(「ぶらかし策」という、ロシア側に対して、失礼千万な対応をしたというのに、)プチャーチンが川路に対して好印象を抱いた、という点だけをとっても、謹堂の川路評がいかに歪んだものであったかは明白でしょう。 
 謹堂もまた、名門古賀家出身の行政官的儒官として、全権の川路に対し、荒尾と同じような鬱屈した妬みがあった、と私は見ています。
 ところで、興味深いのは、筒井に注意されるまで、いや、恐らくその後も、謹堂は、自分が単なる儒官であって、行政官として、交渉の席上での発言を行う立場にない、などとは考えていなかったらしいこと、及び、これと裏腹の関係にありますが、単なる儒官ならば、発言を行う立場にないことが、(儒官的経験のあった)筒井と、自分を行政官的儒官と考えていたと私が見ている謹堂、の2人にとっての共通認識でどうやらあったらしいこと、です。
 こういったことからも、幕府において、儒官が、行政官的役割・・しかも、重要な・・を果たしていた、という、眞壁の主張が、およそ成り立ちえないことが分かろうというものです。(太田)

(続く)