太田述正コラム#9837(2018.5.21)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その74)>(2018.8.4公開)

 「・・・世界情勢を把握する独自の情報収集の努力が、能吏川路聖謨になかったわけではない。
 その年<(1855年)>の7月下旬に江戸で上梓された『海国図志』は、聖謨が・・・箕作阮甫<ら>に依頼して訓点・ルビを加えさせて翻刻したものであった。

⇒重要な情報を、世間一般に公開する努力を払った川路は、見上げたものです。
 他方、同じようなことを、謹堂が行ったという話は、今までのところ、全く出てきていません。(太田)

 しかし、世界地理認識と「開国」政策選択は必ずしも結びつかない。
 情報をどのように評価判断するか。
 如何なる利害状況下でどの立場に位置し、そこで諸条件を勘案した結果何を優先して政治判断を下すのか。
 そのような思考過程のなかで情報は有意性を発揮するであろう。
 たとえば・・・聖謨<は、>・・・かつて田口加賀守喜行<(注163)>がオランダ商館長に軍艦購入を依頼した額を引き、それが『海国図志』のいう軍艦の値段とほぼ同じであると<謹堂に述べた。>・・・

 (注153)「田口は文政6年(1823)、出羽國小花沢の代官・・・に就任、天保2年(1832)に勘定吟味役に昇進して<いる。>」
https://books.google.co.jp/books?id=mCZWBAAAQBAJ&pg=PT195&lpg=PT195&dq=%E7%94%B0%E5%8F%A3%E5%8A%A0%E8%B3%80%E5%AE%88%E5%96%9C%E8%A1%8C&source=bl&ots=TInDn2_-Nd&sig=pr9R9eZdb2V97lDqGrpUTRXvo9A&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiPlr7Zo5TbAhXLUrwKHcb2BfUQ6AEIKDAA#v=onepage&q=%E7%94%B0%E5%8F%A3%E5%8A%A0%E8%B3%80%E5%AE%88%E5%96%9C%E8%A1%8C&f=false
 「長崎奉行に田口加賀守喜行(勘定吟味役)が就任 <したのは、天保>10. 4. 7(1839 5 19・・・) 」1840年6月には、阿片戦争に係る和蘭風説書が長崎奉行・田口加賀守に提出された。「長崎奉行田口加賀守喜行が勘定奉行に抜擢され <たのは、天保>12. 4.15(1841 6 4・・・)」
https://books.google.co.jp/books?id=VuW7DgAAQBAJ&pg=PT19&lpg=PT19&dq=%E7%94%B0%E5%8F%A3%E5%8A%A0%E8%B3%80%E5%AE%88%E5%96%9C%E8%A1%8C&source=bl&ots=3W2_RB2H8w&sig=O-QpqYHYy03kSwCBI68p_3HlqNA&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiPlr7Zo5TbAhXLUrwKHcb2BfUQ6AEIODAE#v=onepage&q=%E7%94%B0%E5%8F%A3%E5%8A%A0%E8%B3%80%E5%AE%88%E5%96%9C%E8%A1%8C&f=false
http://onjweb.com/netbakumaz/tables/jinbutsu/NagasakiBugyou.html (「」内)
 「天保12年2月になり、<大御所の徳川>家斉が死去すると、・・・<水野>忠邦は<将軍・徳川>家慶の意を受けて、4月に<家斉の住まいであった西丸に巣くう、賄賂まみれの>西丸一派に対する一斉追放・粛正工作を行った。若年寄林肥後守忠英、御用取次水野美濃守忠篤、小納戸頭取美濃部筑前守茂育、いわゆる「三佞人(ねいじん)」と言われる者達の粛正である。更に勘定奉行田口加賀守喜行、御側衆五島伊賀守、側室美代の養父中野石翁も地位を追われ、奥女中20名の他、数十人も職を奪われた。」
http://www.geocities.jp/h1929kuroywa/kajino2/yosiki6.html

⇒「注153」で紹介した、幕臣達周知の田口の汚吏的事績からして、いくら自分の「先輩」勘定奉行であったとはいえ、川路が田口を褒める趣旨で謹堂が引用したような発言をしたとは考えにくいのであって、単に、川路が「国際金融」事情に疎かったために勘違いをしていた、というだけのことでしょう。
 謹堂は、根拠を上げて説明し、川路の勘違いを正すべきなのに、下出のように、下衆の勘繰りに基づいていわば喧嘩を売ったわけであり、これでは、川路も反発し、この勘違いを正すに至らなかったのではないか、と危惧してしまいます。(太田)

 しかし、話術に巧みだが、耳学問による言論は、十中七・八を誤り、とても「儒吏<(注164)>」とは言えない、というのが謹堂の川路評である。・・・

 (注164)「前漢王朝において、その政治と主流社会を導いて支えているのは、軍吏(軍層を含む)、法吏、儒吏および宗親という四大官僚集団であ・・・った。・・・前漢王朝における・・・重要な変化・・・は、1、尚功型政治と社会から尚法型政治と社会への転換、2、尚法型政治と社会から尚儒型政治と社会への転換・・・である。」
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-12610382/

⇒謹堂は、「注164」に言う、最高のレベルの行政官という意味で「儒吏」という言葉を使ったのでしょうが、支那の歴代王朝も徳川幕府も、いずれも、まともな「軍吏(功吏)」を払底させてしまったために滅亡したのに対し、明治維新は、軍吏と儒吏を兼ねた、つまりは、文武両道の、雄藩の武士達によって成し遂げられたわけです。(太田)

 <彼は、>清国と日本の貨幣鋳造の金含有量の相違から、・・・当時の清銀両に対する日本銀の貨幣交換比率はおよそ四分の一であり、・・・『海国図志』中の値段をそのまま日本銀に置き換えることはできないという批判を加え、・・・<川路>と「激論」を交わしたのであった。・・・
 謹堂の伝聞によれば、佐賀藩の鍋島直正<(前出)>は日本銀「五千金」でオランダに軍艦を発注している。
 当時の清銀両に対する日本銀の貨幣交換比率はおよそ四分の一であり、軍艦一艘が清銀「價二萬金」、すなわち日本銀「五千金」以内という謹堂の推測はほぼ妥当な見立てである。
 そうであるならば、四倍もの値段をもっともらしく語る川路への疑念は、勘定系の「國庫」管理と彼らの政策選好にまで及ばざるを得ない。
 財政支出の計算は誤っており、海防に乗じて私腹を肥やしているのではないか。
 絶えずもれ出る「尾閭<(注165)>」にも等しい勘定系の財政管理・・・<、>「公義を忘」れた役人川路に対して、・・・謹堂は・・・「大公至正之心」を行動規範とせよ、と後に悔いるほど激しく詰め寄る。

 (注165)びりょ。「《「荘子」秋水から》大海の底にあって絶えず海水を漏らしているという穴。」
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/188596/meaning/m0u/

⇒ポスト「天保の改革」官僚であって、しかもノンキャリ官僚であった自分のような人物の周りは嫉妬心にかられた敵だらけであることを重々承知していたはずの川路は、言いがかりをつけられるような材料を作らぬよう、細心の注意を払い「清廉」であり続けてきたと思われるところ、謹堂は、(それが事実だったとして、)よくもまあこんなことを、本人に面と向かって言えたものです。(太田)

 彼の議論が「書生」的「正論」である所以は、このような顕諫を厭わず官僚倫理に公正を求める潔癖さと、・・・と「道理」に基づく原理的思考の確信にあるであろう。」(466~467)

⇒謹堂の軽率な喧嘩腰の言動によって、せっかく、川路を含む幕府の重臣達が、「国際金融」に係る知識不足に気付き、勉強をする絶好の機会を奪われたことが、やや大げさかもしれませんが、開港時(1859~61年)の金の海外大流出・・現在では流出規模はそれほど大きくなかったとの見方が有力ですが・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E6%9C%AB%E3%81%AE%E9%80%9A%E8%B2%A8%E5%95%8F%E9%A1%8C
を招いた、と言えるのかもしれませんね。(太田)

(続く)