太田述正コラム#9839(2018.5.22)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その75)>(2018.9.5公開)

 「・・・謹堂がこの「道理」によって具体的政策を議論したものには、たとえば勘定吟味役海防掛で蝦夷地御用<(注166)>も兼ね、この下田交渉にも加わっていた村垣範忠(與三郎)との蝦夷地政策をめぐる<もの>・・・がある。・・・

 (注166)「定員2名・・・,役料1500俵,席次は長崎奉行の次で芙蓉間詰。幕府は,1799年(寛政11)蝦夷地御用掛を置いて東蝦夷地を仮上知し,1802年(享和2)永久上知として蝦夷地御用掛を蝦夷奉行,ついで箱館奉行と改め,蝦夷地(北海道)の本格的な経営に着手した。07年(文化4)松前氏を陸奥国梁川に移封するとともに,奉行所を松前に移して松前奉行と改めた。」
https://kotobank.jp/word/%E8%9D%A6%E5%A4%B7%E5%9C%B0%E5%BE%A1%E7%94%A8%E6%8E%9B-1277078

 幕府の蝦夷地政策は、安政元年6月に松前藩領の函館一帯を再び上知(直轄化)し、函館奉行を設置した。
 さらに安政3年2月22日には、函館奉行堀利煕<(注167)>・勘定吟味役村垣の「蝦夷直隷之説」が採用されて、松前藩領のうち、松前氏居城付近を除く蝦夷地全土を幕府の直轄地とするに至るが、ここに至る過程で、完全上知論の徳川齋昭、上知論に賛意を示しながら財政面での考慮を述べる勘定系、漸進論を唱える函館奉行のひとり竹内保徳<(注168)>といくつかの政策対立がみられた。

 (注167)ほりとしひろ(1818~60年)。「父は大目付の堀利堅、母は林述斎の娘。母方のおじに鳥居耀蔵、林復斎、従兄弟に岩瀬忠震がいる。・・・
 嘉永7年(1854年)、箱館奉行となり、樺太・蝦夷地の調査・巡回を行った。・・・安政5年(1858年)には新設された外国奉行に就任、神奈川奉行も兼任して諸外国大使との交渉に尽力した。横浜港開港に尽力し、通商条約では日本全権の1人として署名している。
 万延元年(1860年)、プロイセン・・・との条約交渉<(前出)>を行なっていたが、このときに利煕がプロイセンと裏交渉しているという風聞、並びに・・・プロイセン一国だけではなくオーストリアとも秘密交渉を行なっていたという・・・風聞が流れ・・・、幕府から追及される。利煕はそれに対して何の弁解も行なわず、プロイセンとの条約締結直前に切腹し・・・、村垣範正がオイレンブルクとの交渉を引き継いで日普修好通商条約を結んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%88%A9%E7%85%95
 (注168)たけうちやすのり(1807~67年)。「父は200俵の旗本<、>・・・勘定所に出仕し、勘定組頭格を経て嘉永5年(1852年)勘定吟味役・海防掛に就任。嘉永6年(1853年)の黒船来航後は台場普請掛・大砲鋳立掛・大船製造掛・米使応接掛を兼任。安政元年(1854年)、箱館奉行就任。文久元年(1861年)、勘定奉行兼外国奉行に就き、同年12月に遣欧使節(文久遣欧使節)として30余名を伴い横浜から出港して<英国>へ向かう。攘夷運動に鑑み、江戸・大坂の開市、新潟・兵庫の開港延期の目的で欧州各国を訪問、五カ年延期に成功。文久2年(1862年)5月、<英国>との間にロンドン覚書として協定されたのを始めプロシア、ロシア、フランス、ポルトガルとの間に同じ協定を結んだ。文久3年(1863年)・・・帰国したが、幕府が攘夷主義の朝廷を宥和しようとしていたため登用されず、翌年勘定奉行を辞任。元治元年(1864年)5月に大坂町奉行に推薦されたが着任せず退隠し、8月に閑職の西ノ丸留守居となる。慶応元年(1865年)12月には横浜製鉄御用引受取扱となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%86%85%E4%BF%9D%E5%BE%B3

 これらに対して謹堂の抗争は、幕府直轄ではない、蝦夷地の分割・官私混合開拓であった。
 それは、「私を以て公と為すの計」によって、蝦夷地を諸大名とともに分割統治して、効率よく開墾を勧める方法である。
 広大な蝦夷地を幕府だけで管理する「直隷之弊」は明らかであり、逼迫した幕府財政はますます出費を増加させるであろう。
 「税上薄く抽く、官亦利無きに非ず」。
 分割統治しても税制を整備すれば決して幕府に利益なしとはならない、と謹堂は云う。。・・・
 幕領支配の権限を統括する勘定系は、自己組織の権益拡大と保持にのみ固執し<ているが、>・・・物事の働きの普遍的な条理や定則を見極めようとする原理的思考と意思決定<を行わなければならない、と。>」(468~469)

⇒北海道経営が軌道に乗ったのは、幕藩体制を崩壊させたところの、明治維新以降における、屯田兵制度(1874年~)の導入
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%AF%E7%94%B0%E5%85%B5
と北海道開拓に当たる人材の育成を目指した札幌農学校(1876年~。開拓使仮学校まで遡れば1872年~)の設置
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AD%E5%B9%8C%E8%BE%B2%E5%AD%A6%E6%A0%A1
のおかげであったことを踏まえれば、堀・村垣の主張も竹内の主張も、はたまた謹堂の主張も、いずれも、幕藩体制を所与のものとしていたところの、中身のない、「書生」論に過ぎなかったというべきでしょう。(太田)

(続く)