太田述正コラム#9843(2018.5.24)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その77)>(2018.9.7公開)

 「日露和親條約・・・は、西洋諸国に対して漢文正文を用いた最後の外交文書となった。
 この條約翻訳に参与した古賀謹堂は、国書正文の偏向に不満を述べている・・・。

⇒謹堂は、自分を単なる儒官であるとは思っていなかったというのが私の見立てであり、そうだとすれば、、ここは、儒官の一員としての既得権益墨守精神の発露であるはずはないのであって、彼自身の「思想」の浅薄さを示すもの、と我々は受け止めるべきでしょう。
 というのも、それまで、正文<(注172)>が、外国語たる相手国語で書かれたもの、と、外国語たる漢文で書かれたもの、であった方がおかしいのであって、後者を日本語で書かれたものに切り替えるべきことは、自然にして当然なことだからです。

 (注172)「二国間条約においては、各締約国の公用語が正文とされることが多く、さらに締約国の公用語以外の言語を正文に加えることもある。例えば、日本・メキシコ経済連携協定(177条)は、日本語、スペイン語及び英語を正文とし、解釈に相違がある時は英文によるとされている。
 過去には例えば、1875年の樺太・千島交換条約のように日本とロシア帝国の間で結ばれた条約であるにもかかわらず、フランス語を正文とした例がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%96%87

 (もとより、この2つに加えて、もう1つ、国際的に広く通用する言語で正文・・事実上、真の正文・・が用意されるべきである(「注172」参照)、という主張は成り立ち得るわけですが、その場合、その言語は、日支朝の三か国だけにのみ公式に通用する漢文ではなく、仏文ないし英文でなければなりません。)(太田)

 <いずれにせよ、>それは・・・徳川日本が、東アジア域圏の「礼」をめぐる聘礼外交体系から、19世紀西洋の通商條約外交体系へと大きく方向転換したことを意味する。・・・
 交渉を終えた川路聖謨は、日記<の中で、依然として>・・・夷狄禽獣観を<吐露しており、>・・・「魯戎」に対する聖謨の印象は、「蚕食を常とする虜賊<(注173)>らがいうこと、少しも取るにたらず」・・・という域を出なかった・・・。

 (注173)「虜賊」について、随分ネットで調べた・・例えば、下掲に登場・・
https://kakuyomu.jp/works/1177354054884171637/episodes/1177354054884453146
https://kakuyomu.jp/works/1177354054884171637/episodes/1177354054884491502/comments
が、固有名詞か普通名詞かすら解明できなかった。

⇒眞壁には申し訳ありませんが、この川路のロシア観は、(プチャーチンらに自ら、ひいては日本については好印象を与えつつ、改めて吐露されたものであり、ここでも、川路の「能吏」さに感銘を受けますが、)まさに正鵠を射ていた、と言うべきでしょう。(太田)

 他方、・・・古賀謹堂の<の方は、彼の>日記<の記述から、彼が、>・・・勘定系幕臣たちにたいする<悪>印象を決定的なものにし<ていたことが分かる。>・・・

⇒やはり、眞壁には申し訳ありませんが、この謹堂の、川路のとほぼ同じ時期の日記の記述については、その余りの低次元さに呆れました。(太田)

 安政5(1858)年7月8日に、井伊直弼政権で、新たに遠国奉行の上位に置かれた、初代外国奉行に任命されたのは、勘定系は水野忠徳<(注174)(コラム#4560、9809、9821、9831)>・井上清直、目付系は堀利煕(有梅)、永井尚志(介堂)、そして岩瀬忠震・・・であった。・・・

 (注174)1810~68年。「禄高500石の旗本であったが、天保15年(1844年)、時の老中・阿部正弘に認められ、西丸目付に登用される。以後、使番・御先手組火付盗賊改方加役を経て、嘉永5年4月15日(1852年6月2日)に浦賀奉行、嘉永6年4月26日(1853年6月2日)に長崎奉行に任ぜられた。
 長崎奉行への任命は、翌年に再来航が予定されたペリーとの交渉のためであったが、ペリーは下田に来航したため、空振りに終わった。しかし、ロシアのプチャーチンが日露交渉のために長崎に来航すると、幕府側全権の大目付格・筒井政憲と勘定奉行・川路聖謨を補佐した。
 ちょうどその頃クリミア戦争が勃発し、ロシアと敵対することになった<英>東インド艦隊司令ジェームズ・スターリングは、プチャーチンを捕捉すべく嘉永7年(1854年)9月7日に長崎へ来港したが、プチャーチンは既に出航していた。忠徳はスターリングも外交交渉のために来航したと考え、幕府に許可を求めた(スターリングは同年3月に日米和親条約が締結されたことを米海軍より入手していたが、外交交渉は任務に含まれていなかった)。幕府の許可を得、忠徳及び目付・永井尚志が同年10月14日(嘉永7年8月23日)、日英和親条約に調印した。
 また、オランダ商館長・・・クルティウスを通じ、同年2月に来航したスンビンの艦長ゲルハルデス・ファビウス中佐から、3回にわたり海軍創設の意見書を出させている。忠徳はこれをまとめて幕閣に提出し、幕府海軍設立が承認された。これに基づき嘉永7年9月21日(1854年11月11日)、オランダにコルベット2隻(咸臨丸及び朝陽丸)が発注された(他に観光丸がオランダから寄贈された)。
 安政元年12月24日(1855年2月10日)に日英和親条約を締結後に勘定奉行兼勝手掛、安政4年12月3日(1858年1月17日)に田安家家老などをつとめる。安政5年6月8日(1858年7月18日)には外国奉行に転じて日英修好通商条約・日仏修好通商条約に全権委員として調印。また安政二朱銀の発行を献策し、金銀の内外価格差による金貨の流失を防ごうとしたが、諸外国の外交官の猛抗議によって、3週間で通用を停止させられている。この間、将軍継嗣問題では一橋派として一橋慶喜を支持したが、安政の大獄では処罰を免れている。
 安政6年6月4日(1859年7月3日)には神奈川奉行も兼任するが、ロシア海軍士官殺害事件の責任を問われて、10月27日(1859年11月21日)に閑職である西の丸留守居に左遷された。この結果、日米修好通商条約批准のため渡米する万延元年遣米使節に加われなかったが、米国海軍のポーハタン号で渡米する万延元年遣米使節の護衛を名目に、咸臨丸を米国に派遣している。
 文久元年5月12日(1861年6月19日)に外国奉行に再任。幕府は欧州諸国に対し文久遣欧使節を派遣することになり、外国奉行の忠徳は当然候補となったが、ロシア士官殺害事件に対する忠徳の態度が英国公使・・・オールコックから嫌われており、使節に加わることはできなかった。しかし同年12月、幕府の命により小笠原島開拓御用小花作助らを引き連れて小笠原諸島に赴き、諸島を検分し、父島のナサニエル・セイヴァリーら欧米系島民に対して同地が日本領であることを確認させた。
 文久2年(1862年)7月に公武合体に反対して箱館奉行に左遷され、9月に辞任。しかし文久3年(1863年)6月、老中・小笠原長行が京都で人質同然となっていた14代将軍徳川家茂奪還のため、幕府陸軍1,500人を率いて大坂に向かった際は南町奉行・井上清直らと共に同行している。忠徳は承久の乱を再現させ、攘夷派を軍事力をもって粉砕することを主張したが、長行は受け入れ無かった。結局、朝廷は家茂が大坂へ下ることを許したものの、攘夷派撃滅による一挙の問題解決はならなかった。結局、忠徳はこの事件により同月謹慎を命ぜられている。
 慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦い後の江戸城に於ける評定で新政府軍に対する抗戦継続を強く主張するも、慶喜によって主張が容れられず、隠居。武蔵布田宿に移住したのち、間もなく病に倒れ慶応4年7月9日、59歳で死去。憤死とされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%BF%A0%E5%BE%B3
 ジェームズ・スターリング(Admiral Sir James Stirling。1791~1865年)は、スコットランドで海軍諸提督を生んだ家系に生まれ、ウェストミンスター校卒。当時、少将で commander in chief of the East Indies and China Stationだった。
https://en.wikipedia.org/wiki/James_Stirling_(Royal_Navy_officer)

⇒水野の事績が興味深く、多めに紹介しました。
 能吏であり、かつ、軍事力整備を主張したことは評価できるけれど、一橋派に加わったこと、にもかかわらず公武合体に反対したこと、承久の乱の再現を主張したこと、は、彼が、人を見る目、幕府を見る目、時代を見る目がなかったことを示しています。
 なお、1854年当時に、英国が、どうして、日本に対して、ロシアや米国ほどの関心を抱いていなかったのか、改めて勉強をする必要がありそうです。
 それにしても、その任務を与えられていなかったにもかかわらず、他国と条約を締結できたとは、当時の、英海軍では、少将クラスの部隊指揮官に大きな権限を与えていたものです。(太田)

 晩年の聖謨・・・は、慶應2(1866)年12月4日の日記に<おいて、彼が>・・・共鳴する「実用の学者」魏源<(前出)>に対比させられるのは、「体験少なく」「議論」を好む「書生」たちであ<るところ>、これを日本に当てはめた時に彼が念頭におくのは、「朱子学」を尊ぶ「江戸」の学問所儒学である。・・・
 <彼は、>およそ昌平坂学問所儒学の実態に関知せず、その政治的可能性も認めることが出来なかったのであろう。
 <そのため、>徳川儒学における魏源のような存在、古賀●庵、そして●庵を継いだ古賀謹堂の政策の先進性を、おそらく遂に承認することはなかったのであろう。」(470~471、485~488)

⇒川路に共感して、思わず膝を叩いてしまいました。
 これは、まさに、川路の言うことが全面的に正しいのであって、彼が、自分自身が学んだ「昌平坂学問所儒学の実態に関知」しなかったことなどありえず、むしろ熟知していて、その上で、正しく、その関係者達を切り捨てたわけです。
 川路は、草葉の陰で、謹堂ら、昌平坂学問所関係者達の「先進性」を「承認」する、眞壁のような識者が、後世の日本に出現したことに悄然としているに相違ありません。(太田)

(続く)