太田述正コラム#9847(2018.5.26)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その79)>(2018.9.9公開)

 「慶應3(1867)年10月14日の大政奉還後も、京都朝廷の勅許を得て引き続き派遣準備が進められ、国書案まで作成されて、航路江戸を発ったが、徳川幕府による朝鮮使節派遣はついに実現されることはなかった。
 在京の慶喜と会見手続の最終交渉をしようと使節が途上入京した翌日に、長州藩の兵が摂津西宮に進軍したとの報を受けて派遣は延期される(12月3日)。
 そして、ついに慶應3年12月9日、将軍徳川慶喜が将軍職を辞し、王政復古の大号令を発するという「朝廷未曾有ノ大變革」に及んで、「幕府ノ策議百事<みな>瓦解シ」、徳川幕府外交初の他国への「開国」勧告という「発遣ノ事モ忽<(たちまち)>止」んでしまった。
 それはまた、古賀謹堂にとっても、学政と外政に参与した彼の公的活動すべての終焉を意味していた。」(491)

⇒幕府による、この対外政策の起案責任者は、当時の老中小笠原長行(注179)、実質的決裁者は、当時の(最後の)老中首座の板倉勝静(注180)、であったと思われますが、これは、この2人に共通するところの、時代と微妙にズレていた感覚が生んだところの、彼らの幕閣時代の掉尾を飾る、副産物的対外政策であった、と言えそうです。

 (注179)ながみち(1822~91年)。「肥前国唐津藩小笠原家初代・小笠原長昌の長男。唐津藩の世嗣(藩主とする資料もある)。・・・江戸・・・で朝川善庵に師事した。・・・
 文久2年(1862年)には世嗣の身分のまま、奏者番から若年寄、9月11日老中格、そして間もなく老中となった。文久2年8月21日に発生した生麦事件に対しては、事態を早急に終結させるために翌文久3年5月9日(1863年6月24日)、幕府に無断で賠償金10万ポンドを<英国>に支払った。・・・
 文久3年(1863年)5月、<英国>から借り入れた2隻の汽船を含む5隻に、千数百名の兵を引き連れて海路上京した。このころ、将軍徳川家茂は京都で人質に近い状況に置かれており、この行動は当時京都政局を主導していた尊王攘夷派を一掃するため、京都の武力制圧を図ったものとされている。 長行一行は6月1日に大坂に上陸するが、在京幕閣の猛反対にあい、家茂からも上京差し止めを命じられるにおよんで、上京計画を断念した。長行は9日に下坂、10日には老中職を罷免され、結果として家茂の東帰こそ実現したものの、計画自体は完全な失敗に終わった。・・・
 元治元年(1864年)に謹慎を解かれ・・・、慶応元年(1865年)9月4日に再び老中格、さらに老中に再任される。
 元治元年7月の第一次長州征討後、幕府は再び長州征伐に取り掛かる<が、>・・・この敗戦責任を問われた長行は10月に老中を罷免されたが、徳川慶喜の強い意向により11月には再任された。・・・
 将軍家茂の後継問題に当たり、長行は板倉勝静とともに慶喜を次期将軍に推し、12月に慶喜が第15代将軍に就任する。<そして>、外交担当老中として欧米公使との折衝に当たり、慶應3年6月には外国事務総裁に任じられた。
 慶應4年(1868年)、大政奉還の後、上方で新政府と旧幕府との緊張が高まる中、江戸にあった長行は非戦を主張するが、鳥羽伏見の戦いが勃発、戊辰戦争が起こる。・・・大坂から逃げ帰り恭順の意を決していた将軍慶喜に対し、長行は徹底抗戦を主張するが遠ざけられ、2月10日に老中を辞任し・・・奥州棚倉へと向かった。・・・新政府軍が会津へ迫ると、長行は棚倉から会津へ入り、新政府軍に抗戦する。奥羽越列藩同盟が結成されると板倉勝静とともに参謀となり、白石に赴く。会津戦争において会津藩が破れると仙台から榎本武揚の軍艦開陽丸に乗船し箱館へ向かったが、榎本の箱館政権には参画していない。明治2年(1869年)5月、箱館戦争で旧幕府勢力が破れると、長行は<米>汽船で脱出潜伏し<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E9%95%B7%E8%A1%8C 
 (注180)かつきよ(1823~89年)。「陸奥白河藩主松平定永[松平定信の長男<にして、>・・・のち伊勢桑名藩の藩主。]の八男として生まれた。備中松山藩の第6代藩主・板倉勝職の婿養子となり、嘉永2年(1849年)・・・に養父の隠居にともない家督を継いだ。
 農商出身の陽明学者山田方谷を抜擢し、藩校有終館の学頭とした。方谷の助言のもと藩政改革を行って財政を改善し、殖産興業で藩の負債をなくしただけでなく余財をなし、軍政改革にも着手することができた。
 安政4年(1857年)、これが評価されて奏者番兼寺社奉行に任命された。しかし、安政の大獄で井伊直弼の強圧すぎる処罰に反対して寛大な処置を行い、直弼の怒りを買って同6年(1859年)に罷免された。直弼死後の文久元年(1861年)、再び奏者番兼寺社奉行として幕政に復帰した。翌文久2年(1862年)には老中に昇格し、・・・東禅寺事件を対処し、14代将軍徳川家茂の上洛に随行した。生麦事件の賠償問題や、孝明天皇から受けた攘夷命令が不可能であった問題などから、一時は老中職を罷免されたが、慶応元年(1865年)に老中として再任された。第2次長州遠征では寛典論を主張したが、退けられた。
 家茂没後も、15代将軍徳川慶喜から厚い信任を受け、老中首座兼会計総裁に選任された。そして幕政改革に取り組む一方で、慶応3年(1867年)、土佐の山内豊信が建言した大政奉還の実現にも尽力した。・・・
 <ところが、>慶喜が朝敵とされたことから、・・・慶応4年(1868年)・・・1月・・・に老中を辞し、2月・・・に逼塞処分を受けた。3月には下野国日光山に屏居となった。さらに新政府によって宇都宮藩に移され・・・寺に軟禁されたが、宇都宮戦争で大鳥圭介の旧幕府軍によって解放され、・・・元<同僚>老中<たる>小笠原長行と共に奥羽越列藩同盟の参謀となった。
 ・・・<更には>、《尾張藩主徳川慶勝や会津藩主松平容保元の弟で元桑名藩主であった》松平定敬や小笠原長行と共に旧幕府軍として五稜郭まで従い、同行した松山藩士も新選組に加わって土方歳三の指揮下で戦った。・・・
 <この間、>方谷<が、藩で>・・・留守を守っていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%80%89%E5%8B%9D%E9%9D%99
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E6%B0%B8 ([]内)
http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/rojuu2.html (<>内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E6%95%AC (《》内)

 このシリーズを書き綴るにつれて、日本の、主として幕府高官達やその関係者達・・そのうちの幕末に活躍した人々に関しては、私からすると、わずか100年ちょっと前の時代を生きていたことになります・・にどんどん親近感が湧いてきて、各人についての紹介にも力が次第に入るようになってきました。
 「注180」の中に登場する山田方谷(ほうこく。1805~77年)の事績、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E6%96%B9%E8%B0%B7
なんてものにも、大変感銘を受けましたね。(太田)

(続く)