太田述正コラム#9867(2018.6.5)
<『西郷南州遺訓 附 手抄言志録遺文』を読む(その6)>(2018.9.19公開)

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[西郷隆盛の実像]

 「西郷<は、>・・・奄美大島・・・島民をさげすみ、娘たちの手の甲のいれずみをばかにし「もっとまともな家に住ませろ」と訴えた。後年、明治政府の重鎮となったときに「奄美の砂糖を困窮する鹿児島県士族の救済に使えばよい」と説いた。・・・」
https://www.nikkei.com/article/DGXKZO31329190U8A600C1BC8000/?n_cid=DSTPCS001
(6月5日アクセス)
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 三、国の財政・会計

一三条:租税を薄くして民を裕(ゆたか)にするは、即ち国力を養成する也。
 故に国家多端にして財用の足らざるを苦むとも、租税の定制を確守し、上を損じて下を虐(しい)たげぬもの也。
 能く古今の事跡を見よ。
 道の明かならざる世にして、財用の不足を苦む時は、必ず曲知小慧(きよくちしようけい)の俗吏を用ゐ巧みに聚斂(しゆうれん)して一時の欠乏に給するを、理材に長ぜる良臣となし、手段を以て苛酷に民を虐たげるゆゑ、人民は苦悩に堪へ兼ね、聚斂を逃んと、自然譎詐狡猾(きつさこうかつ)に趣き、上下互に欺き、官民敵讐(てきしゆう)と成り、終に分崩離拆(ぶんぽうりせき)に至るにあらずや。

⇒常套句を連ねているだけで、全く心が籠っていませんね。
 上掲の「西郷隆盛の実像」を読めば、どうしてかが腑に落ちる、というものです。(太田)

一四条:会計出納は制度の由(よつ)て立つ所ろ、百般の事業皆是れより生じ、経綸(けいりん)中の枢要(すうよう)なれば、慎まずはならぬ也。
 其の大体を申さば、入るを量りて出るを制する<(注11)>の外更に他の術数無し。

 (注11)「「礼記・王制」には「三十年の通を以て、国用を制し、入るを量りて、以て出ずるを為す」とあります。「三十年間の平均で、国の予算を組み立てるようにし、まず収入の方をよく押えてから支出の方を計画する」と記されている・・・。」
http://www.iec.co.jp/kojijyukugo/vo97.htm

 一歳の入るを以て百般の制限を定め、会計を総理する者身を以て制を守り、定制を超過せしむ可からず。
 否(しか)らずして時勢に制せられ、制限を慢(みだり)にし、出るを見て入るを計りなば、民の膏血(こうけつ)を絞るの外有る間敷(まじき)也。
 然らば仮令(たとい)事業は一旦進歩する如く見ゆるとも、国力疲弊して済救す可からず。

⇒斉彬は、尾張藩の事績に大きな関心を持ち、とりわけ、その第七代藩主徳川宗春の事績には通じ、宗春の著作である『温知政要』(1731年)も読んでいたはずであり、その中の「お金は活かして使え 過度な倹約省略はかえって無益になる」との趣旨のケインズ主義的(?!)記述
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A9%E7%9F%A5%E6%94%BF%E8%A6%81
も承知し、敬意を抱いていたと思われる(やはり、今度のオフ会「講演」参照)ところ、西郷が「入るを量りて出るを制する」至上主義的な講釈を垂れた、ということは、西郷の斉彬理解が半可通の域にとどまっていた可能性が高いことを示唆しています。(太田

一五条:常備の兵数も、亦会計の制限に由る、決して無限の虚勢を張る可からず。
 兵気を鼓舞して精兵を仕立てなば、兵数は寡(すくな)くとも、折衝禦侮(ぎよぶ)共に事欠く間敷也。

 四、外国交際

一六条:節義廉恥(れんち)を失ひて、国を維持するの道決して有らず、西洋各国同然なり。
 上に立つ者下に臨(のぞ)みて利を争ひ義を忘るる時は、下皆之れに倣(なら)ひ、人心忽(たちま)ち財利に趨(はし)り、卑吝(ひりん)の情日日長じ、節義廉恥の志操(しそう)を失ひ、父子兄弟の間も銭財を争ひ、相ひ讐視(しゆうし)するに至る也。
 此(かく)の如く成り行かば、何を以て国家を維持す可きぞ。
 徳川氏は将士の猛き心を殺(そ)ぎて世を治めしかども、今は昔時戦国の猛士(もうし)より猶一層猛(たけ)き心を振ひ起さずば、万国対峙(たいじ)は成る間敷也。

⇒ここは、斉彬の考えの受け売りであるところの、旧幕府批判です(やはり、今度のオフ会「講演」参照)。(太田)

 普仏の戦、仏国三十万の兵三ヶ月の糧食(りようしよく)有て降伏せしは、余り算盤(そろばん)に精(くわ)しき故なりとて笑はれき。

⇒普仏戦争(1870~71年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E4%BB%8F%E6%88%A6%E4%BA%89
へのこのような角度からの言及は、斉彬がフランスとの提携を示唆していた(やはり、今度のオフ会「講演」参照)ところ、ドイツとの提携に切り替えざるを得ない、との認識からだ、と思われます。(太田)

一七条:正道を踏み国を以て斃(たお)るるの精神無くば、外国交際は全(まつた)かる可からず。
 彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に順従する時は、軽侮を招き、好親却(かえつ)て破れ、終に彼の制を受るに至らん。

一八条:談国事に及びし時、慨然(がいぜん)として申されけるは、国の陵辱(りようじよく)せらるるに当りては縦令(たとい)国を以て斃(たお)るるとも、正道を践(ふ)み、義を尽すは政府の本務也。
 然るに平日金穀(きんこく)理財の事を議するを聞けば、如何なる英雄豪傑かと見ゆれども、血の出る事に臨めば、頭を一処に集め、唯目前の苟安(こうあん)を謀(はか)るのみ、戦の一字を恐れ、政府の本務を墜(おと)しなば、商法支配所と申すものにて更に政府には非ざる也。

⇒西郷は、上で言及した受け売りを踏まえ、長州藩の行った下関戦争(1683年5~6月、1864年7~8月)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
及び、薩摩藩の行った薩英戦争(1863年8月)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
を念頭に置いて、再度、旧幕府・・一度も欧米勢力と干戈を交えることなく瓦解した・・批判を行っているのです。(太田)

(続く)

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