太田述正コラム#9897(2018.6.20)
<松本直樹『神話で読みとく古代日本–古事記・日本書紀・風土記』を読む(その4)>(2018.10.4公開)

 「・ヲロチ退治
 ・・・古事記を中心に見てゆこう。・・・
 出雲の国・・・でスサノヲは、泣き悲しんでいる老夫婦と一人の娘<・・>クシナダヒメ<・・>に出会った。・・・
 老夫アシナヅチは次のように<告げ>た。
 「私にはもともと8人の娘がいましたが、・・・ヤマタノヲロチが年毎にやって来て喰らっていったのです。だから泣いているのです。」・・・
 ヲロチは明らかに大蛇の怪物に違いないのだが、もともとは巨大な河川の神格化されたものであると言われている。・・・
 実は、ヲロチ<は、>・・・決まった時期に氾濫する暴れ川としての姿を表しているのである。・・・
 クシナダヒメ(日本書紀では「奇稲田姫」と記す)という水田の女神<なの>であ<る。>・・・
 スサノヲは、クシナダヒメを自分に献上するかどうか、老夫に尋ねた。
 その際、老夫に名を尋ねられたスサノヲは次のように答えた。
 「私は天照大御神の同母弟(いろせ)である。それで、今、天から降ってこられたのだぞ」
 名を聞かれたのに、「スサノヲだ」と名のっていない。
 なぜだろうか。
 神でも人でも同じなのだが、本名とは、神や人の魂そのものであると考えられていたようだ。
 また、言葉(声で伝える言葉)には言霊(ことだま)<(注6)>がこもっていた。

 (注6)「日本は言魂の力によって幸せがもたらされる国「言霊の幸ふ国」とされた。『万葉集』・・・これは、古代において「言」と「事」が同一の概念だったことによるものである。漢字が導入された当初も言と事は区別せずに用いられて<いた。>・・・自分の意志をはっきりと声に出して言うことを「言挙げ」と言い、それが自分の慢心によるものであった場合には悪い結果がもたらされると信じられた。・・・すなわち、言霊思想は、万物に神が宿るとする単なるアニミズム的な思想というだけではなく、心の存り様をも示すものであった。・・・
 厳粛な場で・・・<ある>祭り<で>・・・神々に述べられたのが祝詞<だが、この祝詞は、>・・・言霊信仰の上に成立したもので、盛んにほめ讃える詞を使う。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E9%9C%8A

 言葉は、命の象徴である息(万葉集では命のことを「息の緒」という)とともに、体の中から発せられるからである。
 したがって、自分の言葉によって自分の本名を相手に告げることは、自分の命を相手に預けることを意味していたのだ。

⇒どこかで聞いたことがあるような話ではあるのですが、ネット上で検証することができませんでした。
 いずれにせよ、「戦において武士が味方や敵に向かって自分の姓名・身分・家系などの素性、戦功、戦における自分の主張や正当性などを大声で告げること」であるところの、名乗り(なのり)が、「論功行賞に関わることでもあり平安時代末期ごろから盛んに行われるようになった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E4%B9%97%E3%82%8A (「」内)
ことからすれば、松本の指摘のような観念がそれ以前に本当にあったとすれば、それが、どうして変わってしまったのかを知りたいところです。(太田)

 だから、主君に服従を誓う時、人はまず自らの声で名のったのである。
 ・・・<既に>老夫は自らアシナヅチだとなのっ<てい>たが、スサノヲは名のらない。
 この違いは・・・そこに・・・上下の関係がある<から>だ。
 では、スサノヲは、どうして上位なのだろう。
 それは自ら尊敬語を使って話しているとおり、アマテラス大御神の同母弟」として「天から降ってこられた」からに他ならないのだ。」(31~35)

(続く)