太田述正コラム#9915(2018.6.29)
<松本直樹『神話で読みとく古代日本–古事記・日本書紀・風土記』を読む(その10)>(2018.10.13公開)

 「・・・別々の神格に何らかの共通点があったりすると、いつのまにか各々が同神として信仰されるようになったり、或いは宗教的な価値観を共有するために意図的に同神とされることもある。・・・

⇒「どうして、日本神話の神々・・・に、これほど様々な表記や読み方があるのか」との私の問いかけ(コラム#9901)への回答が一応ここで示されているわけです。(太田)

 オホクニヌシとは、他の四つの神名=神格(古事記)、六つの神名=神格(日本書記)を合わせて、新しく作り出された「大いなる国の主」なのである。
 多くの神名の中で、最も有名なオホクニヌシこそが、実は最も新しい神名=神格だったというわけである。
 出雲<(注20)>には出雲国風土記がほぼ完本の形で残されている。

 (注20)「古代出雲は、弥生時代、古墳時代の出雲の国(現在の島根県東部および鳥取県西部)にある出雲平野、安来平野を中心にあった文化をさす。・・・
 朝鮮半島北部にあった中国の植民地の楽浪郡(紀元前108年~313年)との交流があったと考えられている。・・・
 邪馬台国より先んじて神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸や関東など、四隅突出墳墓や出雲神話への影響が認められる。また、早期から製鉄技術も発達して<いた>・・・。記紀の3分の1の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られており、早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことが伺える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%87%BA%E9%9B%B2

⇒古代出雲についての「注20」を読むと、この地についての研究が、昔に比べて随分深まっている印象を受けますね。(太田)

 天平5年(733)の成立で、中央で古事記ができて21年後、日本書記の成立からも13年が経過している。

⇒ますます、古事記、日本書記、風土記、の「三部作」を作った理由と、この三つの関係性の解明が待たれます。
 一つ付け加えれば、どうして、出雲国風土記だけが、ほぼその全体が伝えられているのか、の解明も・・。(太田)

 出雲ゆかりの神々の神話に彩られた風土記であり、その中で、登場回数において圧倒的な第一位を誇るのがオホナムチ<(注21)>であるが、そこにはただの一度もオホクニヌシという名前、つまり神格が登場しないのだ。

 (注21)「大己貴神(オオナムチ)は出雲神話の最大のヒーロー。大国主の別名として扱われます。古事記を読む限りは「大国主の子供の頃の名前」です。ですが日本書紀ではほぼ「オオナムチ」で一貫しています。オオナムチの「オオ」は「大」。「ナ」は「土地」。ムチは「高貴な人」という意味とも。オオナムチは明らかに「スクナヒコナ」とセットになっています。「大」「ナ」と「少」「ナ」という対です。神世七代あたりを読むと神様が皆、対でセットになってい<ます。>」
https://nihonsinwa.com/page/1025.html
 「オオクニヌシ・オオナムチは大地神。スクナヒコナはおそらくは種子、穀物の神。大地+種子=豊穣を表している。常世の国からきた小さな神ガガイモの実の殻で出来た船に乗り、蛾の皮を着た小さな神。カミムスビ神(造化三神の一人)の子供。スクナヒコナは最初名前が分からなかった。そこでカカシの「クエビコ」に聞けば分かるとヒキガエルが提案する。スクナヒコナに、カカシとヒキガエルが関わるということは、スクナヒコナは作物の神であり、おそらく「水田」に関わる神と思われる。スクナヒコナは常世という海の向こうからやってきた神様で、オオクニヌシと共に日本の国造りを終えると、常世の国へと帰って行った。
 スクナヒコナは古事記ではカミムスビの子とされ<る>が、日本書紀ではタカミムスビの子とされ<る>。・・・
 一寸法師などの小さな子どもが活躍する物語のルーツとされる神様。」
https://nihonsinwa.com/page/82.html

 おそらく出雲にはもともとオホクニヌシなどという神は存在しなかったのだろう。
 神が存在しなかったというのは、すなわち信仰がなかったということである。
 出雲では、他ならぬオホナムチこそが、当国第一位の神として篤い信仰を集めていたのである。
 そればかりではない。
 出雲国風土記にはスサノヲとオホナムチとの系譜関係を示す記事がひとつもないのだ。
 スサノヲは出雲国風土記で登場回数第二位であり、その御子とされる神も多い。
 このような状況からすると、スサノヲ・オホナムチの系譜関係は、もともと出雲の神話世界にはなかったと見るべきである。」(72~73)

(続く)