太田述正コラム#9945(2018.7.14)
<松本直樹『神話で読みとく古代日本–古事記・日本書紀・風土記』を読む(その25)>(2018.10.28公開)

 「・・・<日本書記の>主文における国作りの原理はどうであったか。
 まず「陰陽二元論」に始まり、そこから「天主導の国作り」へと受け継がれた。
 <その>「天」の主宰神<だが、>・・・まず陽神・陰神であるはずのイザナキ・イザナミが何となく「天」を担っていたが、やがて「天上」の統治者として日の神オホヒルメが登場し、それが後に、アマテラスという神名で活躍し、その後には「天つ神」と呼ばれるタカミムスヒ<(前出)>に取って代わられる。
 このように、主文は、<建国神話>の理念を変えながら、また何系統かの司令神を交替させながら展開してゆくのだ。
 その変わり目は、主文としてはあまりに唐突であったり、不可解であったりするのだが、それを解消するのが一書群の存在である。
 たとえば、「陰陽二元論」が「天主導」に代わっても、「天つ神」タカミムスヒがいきなり「尊」<(注61)>号・・・(日本書記における至上の敬称…第一段主文)・・・を持って現れても、それは既に一書に示してある情報であり、それが主文の合理性を保証しているのだ。

 (注61)「尊<は、>・・・神<の>・・・尊称で・・・代表的なのは「かみ」(神)と「みこと」(命・尊)である。 ・・・その他、『古事記』では特定の神格についてはそれぞれ神(かみ)なのか命(みこと)なのか決まっている場合がほとんどで、きっちり使い分けされているが、『日本書紀』では全て「みこと」で統一した上で、特に貴い神に「尊」、それ以外の神に「命」の字を用いている。
 特に貴い神には大神(おおかみ)・大御神(おおみかみ)の神号がつけられる。また、後の時代には明神(みょうじん)、権現(ごんげん)などの神号も表れた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E_(%E7%A5%9E%E9%81%93)#神名

 また主文において、「日神系」が「天照系」に代わっても、なお「日神系」の伝承は一書として存在し続け、かつての主文の理念の正統性を保証する。
 主文における「天」の主宰神が、オホヒルメ=アマテラスからタカミムスヒに交替しても、なお一書の中では天照が主宰神であり続け、それが以前の主文の確かさを保証する。・・・
 <さて、今更だが、>日本書紀にとって、<神話>とは何だったのか・・・
 次のようなことが言えるかもしれない。
 総合的な<建国神話>を描くことが、<歴史>を記す大前提であったのではないか。・・・

⇒申し訳ないが、全く無内容の指摘です。(太田)

 <次に、>日本書記が<建国神話>の諸伝を掲載しているのに、なぜそこに古事記の<神話>がないのか・・・
 古事記は日本書記成立の8年前に完成したことになっている。
 正史としての日本書記は、古事記とは違うものを目指していて、日本書記にとって古事記とはいわば否定的な存在だったというのが、これまでの議論の主な方向性だと思う。
 文体などからは、確かにそのように見えてくる。<(注62)>

 (注62)「古事記<の>・・・本文は変体漢文を主体とし、古語や固有名詞のように、漢文では代用しづらいものは一字一音表記としている。歌謡はすべて一字一音表記とされて<いる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98
 変体漢文とは、「正格の漢文(純漢文)に対する概念。和化漢文ともいう。とくに平安時代以降、公家日記など、記録の作成に採用された文章様式のものを記録体、また東鏡体(あづまかがみたい)と称する。その文章表記には、原則として漢字がもっぱら使用され、漢文様式をもつ文章でありながら、表記、語彙、構文のうえで、漢籍、漢訳仏典など、<支那>古典の文章にはみいだしがたい要素を含むものをいう。たとえば、(1)原則として漢字専用表記であるが、ときに万葉仮名、片仮名、平仮名を混用することがある。(2)漢字の用字法が比較的単純であり、また「候」「条」字など、<支那>古典の文章における本来の用法から逸脱したものがある。(3)「然間(しかるあいだ)」「物騒」など、その語彙のなかに、和語をはじめ、日本で造語された漢語(和製漢語)など、純漢文では用いない用語がある。(4)「逐電(ちくてん)」など、<支那>古典の文章における本来の用法から派生した語義、用法のものがある、などである。『古事記』の文章などもこの文体のものであるが、平安時代に入り、『小右記』『御堂関白記』などの古記録、『明衡(めいごう)往来』などの書状文範集や古文書、『江談抄(ごうだんしょう)』などの故実説話集、その他この文体で記された文献は多い。鎌倉時代以降、『吾妻鏡』などにみるように、これが公的な文体として採用され、江戸時代末まで公文書の文章様式として広く行われた。書簡文体としての「候文」もその一体である。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%89%E4%BD%93%E6%BC%A2%E6%96%87-131273

 ただ、<神話>という観点から見るとどうだろうか。
 日本書記の<神話>は、確かに漢文を主として書かれているが、古事記の<神話>を漢文になおして、一書として掲載することもできたはずである。
 それを書かないのは、むしろ既に古事記があったからだと考えることはできないだろうか・・・。
 そして、その古事記<神話>の情報も、もちろん<建国神話>の常識を構成するものであって、主文を読む際の前提だったということである。
 現に日本書記の主文の文脈は、古事記を知る者ほど、その断絶や段差に気付きにくい仕組みになっていた。
 後世に「記紀神話」と総称される漠然とした<建国神話>の常識を前提にして、<神話>がなお一定の「神話力」を持っていた時代における史書編纂の営みと捉えておきたいのだ。」(195~196、206、208~212)

⇒既に累次指摘していることの事実上繰り返しですが、そういうことを言うのなら、どうして、古事記そのものを、(支那等に対して用いるべく、)漢文になおすだけにしなかったのか・・その際、一書群を漢文で追記する形で漢文版古事記を膨らませることだってできたはず・・、を、是非松本に教えて欲しかったところです。(太田)

(続く)