太田述正コラム#684(2005.4.8)
<イラク移行政府の陣容(その1)> 
1 大統領

 (1)大統領・副大統領の選出
 6日、ようやくイラク移行(transitional)政府の大統領がイラク議会で選出されました。
 選ばれたのはタラバニ(Jalal Talabani。1933年?)氏です。タラバニ氏は、これまでのイラク暫定政府(interim government)ができる前に(多国籍軍によって)設置されていたイラク統治評議会(Iraqi Governing Council)の統治評議会議長(President)でした。同時に選出された二人の副大頭領は、これまでのイラク暫定政府で財務相をしていたシーア派のマーディ(Adel Abdul-Mahdi)氏(コラム#674)と、同じくイラク暫定政府で大統領をしていたスンニ派のヤワル(Ghazi Yawer)氏(コラム#371、674)です。

 (2)タラバニ氏の軌跡
 ここで、タラバニ氏の軌跡を振り返っておきましょう。
 バグダッド大学法学部卒で、クルド人独立国家建設を目指すKDP(Kurdistan Democratic Party)内で頭角を現し、1961年に当時のカセム(Abdul Karim Qasim)政権に対するクルド人の蜂起に参加したものの、次第にKDPの指導者ムスタファ・バルザニ(Mustafa Barzani)氏(注1)と反りが合わなくなり、1965年にできたKDPの分派の指導者の一人となり、翌1966年、この分派がイラク政府の側についてKDPに対する軍事作戦に協力したため、KDPはイラク政府との間で和平協定を結ばざるをえなくなります。そのタラバニ氏は、1975年にはクルド人の中の都市住民ないし左翼を中心としたPUK(Patriotic Union of Kurdistan)を設立し、翌1976年からイラク政府に対する武装闘争を開始します。しかし最終的にフセイン政権は化学兵器まで用いることによってこの武装闘争の鎮圧に成功し、タラバニ氏はイランへの亡命を余儀なくされます(注2)。

  • (注1)クルド人3000万人が、トルコ・シリア・イラク・イランの国境地帯にまたがって、それぞれの国の少数民族として暮らしている。バルザニ氏は、1946年にソ連が占領していたイラン北部でKDPを設立し、一定領域を支配してマハバド共和国(Republic of Mahabad)と称した(http://www.globalsecurity.org/military/world/para/kdp.htm。4月8日アクセス)。 
  • (注2)イラン・イラク戦争の真っ最中の1983年、PUKはフセイン政権の「懇願」に応じて休戦に同意するが、一年余りで武装闘争を再開する。怒ったフセイン大統領は1987年から1988年にかけてアンファル作戦(Anfal Campaign)を発動し、クルド人の村々を焼き払い、人々を逮捕して集団処刑するというジェノサイドを敢行し、1988年のハラブジャ(Halabja)等における化学兵器を使った攻撃の犠牲者を含め、少なくとも20万人のクルド人を殺害したと言われている。(http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/4421261.stm。4月8日アクセス)

 1991年の湾岸戦争の後、クルド勢力は再度武装闘争を開始し、米英等によってクルド地区にイラク軍機飛行禁止区域が設定され(コラム#56、70、77、111)、クルド人の聖域がイラク北部に生まれます(注3)。

  • (注3)この間、フセイン政権の鎮圧作戦に苦しんだタラバニ氏は、1991年の春、突然姿をくらまし、バグダッドでTVにフセイン大統領と一緒に現れ、大統領の頬にキスをして視聴者の度肝を抜いた。またもやタラバニ氏は休戦という離れ業を演じたのだ。(http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/4421261.stm上掲)

 そしてその聖域の中で、イルビル(Irbil)を本拠にして聖域の北西部を支配するKDP(注4)とスレイマニヤ(Sulaymaniya)を本拠にして聖域の南東部を統治するPUKという棲み分けが成立し、現在に至っています。

  • (注4)1979年にムスタファ氏が亡くなると、その息子であるマスード・バルザニ(Massoud Barzani)がKDPの指導者となった。彼はタラバニ議長の下でイラク統治評議会の委員を務めた。(http://news.bbc.co.uk/1/shared/spl/hi/middle_east/03/post_saddam_iraq/html/kurds_massoud_barzani.stm。4月7日アクセス)
    タラバニ氏が今回大統領になったことに伴い、バルザニ氏はクルド自治地区の首班となると考えられている。

 それまで角突き合わせてきたKDPとPUKは、1992年に合同自治区を設立し、統一自治議会選挙を実施します。しかし、1994年から両者の間で武力紛争が勃発し、3000人もの死者が出て、KDPがフセイン政権の軍隊を呼び込むという禁じ手を使ってPUKを撃破するに及んでようやく収束に向かいます。しかし、正式に停戦が成立したのは米国等の仲介により1998年になってからでした。2002年には統一自治議会が再招集され、2003年にはイラク戦争直前に両者は完全な結束に至り、タラバニ氏のイラク在住クルド人全体に対するリーダーシップが確立するのです。
 (以上、特に断っていない限りhttp://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/4418937.stmhttp://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/4415531.stmhttp://www.nytimes.com/2005/04/07/international/middleeast/07iraq.html?ei=5094&en=a9159b6baab54b66&hp=&ex=1112846400&partner=homepage&pagewanted=print&positionhttp://www.kerkuk-kurdistan.com/hevpeyvinek.asp?ser=4&cep=4&nnimre=339(いずれも4月7日アクセス)による。)

(続く)