太田述正コラム#10075(2018.9.17)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その52)>(2019.1.2公開)

 「・・・<参謀本部作戦部長の>石原<莞爾>はこの時期(1938年6月3日)
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE >
に「戦争指導要綱」をまとめる。
 そこには「速(すみやか)に具体的講和条件を確定し、以て戦争の目的を明かならしむ」、「好機を把握し速やかに和平を締結す」と記されている。・・・

⇒石原は、この時までに、島津斉彬コンセンサス信奉者から、横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者へと転向していた、というのが私の見立て(コラム#9902)であるわけです。
 なお、当時、石原の上司の多田俊参謀次長も石原と同意見だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E9%A7%BF
わけです。(太田)

 <この日に、杉山元に代わって就任した、>陸軍大臣板垣征四郎・・・<も、>石原<同様、>満州国最優先=対ソ戦準備の戦略的な観点から日中戦争の解決を求めていた・・・。・・・

⇒内閣改造が行われたのは5月26日で、陸相交代は6月3日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E6%AC%A1%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%86%85%E9%96%A3
で、この1週間の間に何があったのかを井上は追求していませんが、私は、この間に、杉山は、陸軍次官として、自分の有能なロボットである東條英機を5月30日に着任させた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E9%A7%BF
上で、新外相の宇垣に対し、前述の真意の開陳を行い、ピエロ役を演じることを飲ませたのだ、と想像しています。
 その上で、杉山は、「自ら」陸相を辞任し、自分の後任として予定していたところの、(既に自分の真意を明かして「同志」に引き入れていたはずの、陸士6期後輩(上掲)たる)板垣と陸相を交代し、支那の現地事情の最終的把握のために北支那方面軍司令官として赴任した、と私は見ている次第です。
 では、一体どうして、杉山は、赴任先として北支那を選んだのでしょうか。
 板垣は、「第5師団師団長として・・・平型関と忻口鎮(きんこうちん)の戦闘では、険しい地形を生かした林彪らの八路軍に阻まれ多くの死傷者を出<したが、>1937年11月9日、第20師団の救援により、山西省太原市を占領した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E5%BE%81%E5%9B%9B%E9%83%8E
という、自分の、八路軍との濃密な接触経験を通じ、中国共産党との事実上の提携可能性を見出し、その旨を杉山にも伝えていた可能性があり、これを踏まえ、杉山が、同党との事実上の提携関係を確立するために北支那に赴いた、というのが私の最新の仮説です。
 いずれにせよ、板垣がこの時期の石原と同じ日支戦争観を抱いていた、との井上説は、私に言わせれば、到底、成り立ちえないのです。(太田)

 広田弘毅から宇垣への外相交代は、外務省東亜局長石射猪太郎にとっても好機到来だった。・・・
 こうして閣内では宇垣–池田–板垣の連携、外務省内では宇垣–石射の連携によって、和平工作が具体化した。

⇒私が、石射を全く評価していない(コラム#8342)ことはご承知のむきもあると思いますが、いずれにせよ、外務省の一介の局長にここまで注目する井上の思考回路が、私には理解できません。
 また、宇垣–板垣の連携は、井上とは真逆の意味でですが成立していた、そして、池田に至っては、日本政府が和平志向であるとの印象を醸し出すための、単なる、見せ金ないし壁の花、であった、と、私は見ているわけです。(太田)

 ところが盧溝橋事件から一周年の1938年7月7日・・・の『東京朝日新聞』<が、>・・・近衛の記者会見での発言を報じ<たところ、それは>・・・1月16日の「対手とせず」声明・・・の確認だった・・・。
 翌8日の五相会議はこの首相発言に即して、「蒋政権飽迄(あくまで)打倒」の方針を決定する。
 石射は驚く。・・・
 翌9日、宇垣に問い質す。
 宇垣は「説明アヤフヤ」な「醜態」を晒す。」(184~186)

⇒宇垣は、まさか、自分は杉山のピエロでございます、と、明かすわけにもいかなかったことから、石射にまともな説明ができるはずがなかった、ということでしょう。(太田)

(続く)