太田述正コラム#10085(2018.9.22)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その57)>(2019.1.7公開)

 「・・・岡田からすれば、事は重大だった。
 なぜならば南部仏印は、そこからならば日本軍機がフィリピンやシンガポールに届く距離に位置していたからである。・・・
 岡田は・・・南部仏印進駐によっても、「対米英戦争を敢行する迄の決意は我国の朝野に瓦(わた)ってなかったことは認識せらるべきである」と指摘している。
 南部仏印進駐によってどれほど対米英蘭関係が悪化したとしても、日本側から手を出さなければ、戦争は起きなかった。
 そうだとするならば、戦争回避の可能性は残っていた。

⇒いや、日本が南部仏印進駐に踏み切った時点では、もはや、「戦争回避の可能性は残ってい」ませんでした。
 杉山ら帝国陸軍上層部は、この進駐に対して、米英(と蘭)が対日経済制裁を必ず行うであろうこと、そして、その結果として、「対米英戦争を敢行する・・・決意<が>我国の朝野に瓦(わた)って<生じるであろうこと>」を読み切っていた、というのが私の見立てです。
 なお、岡田は、そして井上も、「戦争」が「対米英戦争」であることを当然視していますが、「対英(のみ)戦争」の選択肢が最後まで理論上はありえた・・より正しく言えば、日本が対英(と蘭)のみ開戦しておれば、米国が参戦することはなかった・・ことに気付いていません。
 杉山は、それが分かっていて、あえて、対「米」英開戦に持って行った、と、私は考えるに至っています。
 付言すれば、独ソ戦が始まった段階で、対ソ(のみ)戦争の可能性もあったのに、それも杉山は、(恐らく最初からそのつもりだったのだろうと想像していますが、)あえて、ソ連抜き対米英戦に持って行ったのだ、と私は踏んでいます。
 これらの理由を、私なりに杉山に成り代わって言わせてもらえば、こういうことであったのではないでしょうか。
 英国自身が、世紀の変わり目頃にもなると、アジアにおいてさえ、単独で対露抑止を継続することが困難になり、それを日本に極東において肩代わりさせるために日英同盟を締結したわけですが、先の大戦終了後は、英国は一層衰退した存在になることは必至である以上、米国を対露(ソ)抑止に引きずり込まなければどうにもならず、それには、日本が対米開戦して「敗北」することによって、米国を、少なくとも極東において、露(ソ)と直接対峙させることが一番確実だった。
 (対ソ米英開戦は狂気の沙汰としてさすがに検討対象から除くとして、第一に、対ソ英開戦は、劈頭の攻勢作戦において、陸上兵力を南北に同時に指向させるのでは、虻蜂取らずになりかねず、第二に、対ソのみ開戦だが、(ドイツに協力して)ソ連を攻撃しても、ソ連を短期間に打倒できる可能性は小さく、対ソ戦が長期化したり、中途半端なところで休戦になったりした場合、英米、いや、少なくとも米国は、ソ連に経済/軍事援助を適宜行いつつ高みの見物を続ける可能性が高いし、さりとて、第三に、対英のみ開戦をして仮に英国の在アジア全植民地解放を成し遂げえたとしても、その後、対ソ抑止をアジアに関して日本一国で引き受けるのは荷が重すぎる。)(太田)

 戦争回避を求めて、1941年4月から日米交渉が始まる。

⇒既に述べたように、これは、対米英戦準備を行っていたところの、杉山らによって仕組まれた、見せ金としての日米交渉であったわけです。(太田)

 日本側で交渉の成否の鍵を握っていたのは、野村(吉三郎)<(注81)>駐米大使と松岡(洋右)外相だった。

 (注81)1877~1964年。「旧紀州藩士・・・の三男として和歌山県名草郡(現:和歌山市西釘貫丁)で生まれ<る。>」海兵卒(のみ)。
 「1939年(昭和14年)8月末、予備役陸軍大将の阿部信行が組閣の大命を受けると、阿部は当初外務大臣を兼任したが、政権発足直後に欧州で第二次世界大戦が勃発すると、国際法に詳しい専任の外相がどうしても必要になった。そこで阿部が抜擢したのが野村だった。海軍時代から国際法の研究に携わっていた野村は、退官する頃までにはその権威として知られていたのである。しかし9月25日に野村は外相に就任するが、3か月半と経たないうちに阿部は内閣を放り出してしまう。その後日米関係が悪化の一途をたどる中、1941年(昭和16年)1月に野村は駐米大使に起用される。<ロ>ーズベルト大統領とは<海軍次官当時の日本大使館駐在武官であり、>旧知の間柄ということが期待されての人事だった。
 野村には在<米>大使館駐在武官の経験はあったが、もともとはドイツ語が第一外国語で、英語は必ずしも流暢ではなく、<米国>政府要人との外交交渉の場で野村の英語力がネックになることさえあったとされる。日本の南部仏印進駐によって<米国>との関係がさらに悪化すると、外務省は駐独大使を歴任した外交官の来栖三郎を異例の「二人目の大使」としてワシントンに派遣、両大使で<米国>のコーデル・ハル国務長官と戦争回避のための交渉を行わせることにした。
 来栖は外務省入省直後から<米国>勤務が長く、英語が非常に流暢であったが、如何せん駐独大使として・・・日独伊三国同盟に署名した張本人であり、<ロ>ーズベルト大統領は同じ海軍の出身で旧知の間柄である野村を好意的な目で見る一方、来栖には不信感を隠さなかった。交渉は難航し、野村は再三にわたって辞職願いを出すが、外務大臣ばかりか海軍大臣や軍令部総長からも慰留されて結局大使の立場にとどまっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88

⇒「注81」が示唆しているように、野村は、渡米後間もなくして、自分が見せ金役に過ぎないことに気付いたのではないでしょうか。(太田)

 戦争調査会の第一部会は1946年4月26日に野村の講演と質疑応答を実施している。
 松岡から事情を聴くのは無理だった。」(193、196~197)

(続く)