太田述正コラム#10103(2018.10.1)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その65)>(2019.1.16公開)

「戦争調査会は戦時中の資料も調査対象としていた。・・・
 <そのうちの一つである、>「南洋毎日新聞 主筆 鈴木奔山氏談話速記録」(1946年2月9日)<において、>・・・鈴木は軍部とくに海軍を強く非難する。
 一つは杜撰な作戦計画である。・・・
 鈴木は<サイパンの>司令部の参謀に質した。
 「一体・・・潜水艦に対して何とかならないのか」。
 参謀は堂々と公言して答えた。
 「アメリカの潜水艦の作戦だけはわれわれは算盤に入れてなかった」<(注92)>。・・・

 (注92)「永野修身<(1880~1947年)は、>・・・海軍の三顕職である連合艦隊司令長官、海軍大臣、軍令部総長を全て経験した唯一の軍人<(元帥)だが、>・・・米国戦略爆撃調査団が永野に質問を行なった際、その中には、なぜ日本海軍は無差別潜水艦作戦を実施しなかったのかという潜水艦の用兵に関する質問があった。永野は戦争中海軍の軍令の最高責任者を長く務めたにもかかわらず「残念ですが、私は潜水艦については詳しく知りません」と陳述した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E9%87%8E%E4%BF%AE%E8%BA%AB

 もう一つは退廃である。
 軍令部の軍人が酒、ビール、煙草、手拭、石鹸などの軍需物資をリヤカーやオート三輪車で勝手に持ち出して、馴染みの料理屋で「乱痴気騒ぎ」をしていた。
 建築部隊の将校、建築請負師、民間業者の三者合同の疑獄事件も起きた。
 鈴木はくりかえす。
 「一番横暴を極めておったのは海軍である。
 そうして防備はしていない。
 [地]上砲火の如きも上陸第1日で殆んど全部沈黙した」。・・・
 <また、>戦争調査会における岡田菊三郎<(前出)>の談話記録(1946年5月23日)<において、>・・・岡田は・・・何とかもっと上手にできなかったか。
 私はやり方によっては、こんな惨めなことにならぬでもいい方法があったのではないかという気がして仕様がない」。・・・
 「初めからハワイを奇襲した序でに、なぜハワイを取ってしまわなかったのか」。・・・・・・
 岡田は<、また、>ミッドウェー海戦を不要不急の作戦と批判し<た。>・・・
 ミッドウェー海戦を指揮していたのは、連合艦隊司令長官山本五十六だった。
 山本が「1、2年は暴れてみせます」と見得を切ったことはよく知られている。
 1、2年どころか実際には開戦半年で日米の攻守は逆転した。・・・
 <これに関連し、>岡田は軍事技術上の敗因の一つとして、「電波兵器」(レーダー)を挙げ<ている>。・・・
 開戦と同時にアメリカは数千人(イギリスは開戦前から数千人)の研究者、技術者を動員して翌年6月のミッドウェー海戦では実戦配備していた。
 <しかも、>敵国のレーダーに用いられていたアンテナ技術は、特許期限切れの「八木アンテナ」だった。」(212~213、215~218)

⇒井上は、この二つ以外もう一つの資料を取り上げていますが。それも、サイパンの海軍の失態に関するものです。
 なお、付言すれば、レーダーは、陸軍にとっても重要な装備ではあっても、何の遮蔽物もない、海洋で戦うことを主とする海軍にとっては、遥かに重要な装備なのであって、日本のレーダー開発の遅れは、海軍の大失策であった、と言ってよいでしょう。
 井上が、あえて偏った、資料の紹介をしたとは考えにくい以上、要するに、陸軍は咎められるところが少なかったのに対し、海軍の戦争の準備と遂行ぶりは拙劣極まりなかった、ということでしょう。
 海軍は、上から下まで無能揃いで、しかも(少なくとも)下は腐敗していたらしい、というわけです。
 (陸軍に比べて、海軍がどうして、かくも劣化してしまっていたのか、の究明は、私の今後の課題の一つにしたいと思っています。)(太田)

(続く)