太田述正コラム#7542005.6.15

<義和団の乱(その3)>

  ウ 史上初の多国籍軍

 義和団の乱に出動した8カ国の連合軍(注10)は、当時欧米で十字軍の再来だと言われたものですが、十字軍の当時はまだ近代主権国家が成立していなかったことを考えれば、義和団の時の連合軍こそ、史上初めての多国籍軍でした。まさに、このところ大流行の多国籍軍やNATO、国連の平和維持部隊の先駆と言って良いでしょう。

 (注10)しかも、各国軍の多くは植民地人による部隊を含んでいた。英軍はインド人(シーク教徒・ラージプート・ベンガル人)・支那人、米軍はフィリピン人、仏軍はベトナム人、ロシア軍はコサック、といった具合だ。

 当時、支那と最も政治経済面で関わりの深い外国は英国であり、支那在留人数で見ると、1900年の外国人総数10,855人中、英国が突出して4,362人を占め、次いで米国が1,439人、そして少し離れて団子状態でフランス933人、ドイツ870人、日本852人と続きます(注11)。

(注11)参考までに当時の人口を紹介すると、英4000万人(英帝国4億人)、露1億3000万人、米7600万人、独5200万人、日4300万人、仏3900万人、伊3100万人だった。ちなみに、支那は3億人。

 ですから、本来であれば基本的に、英国が単独で、あるいはせいぜい英米が連携して義和団の乱に対処したであろうところ、英国はボーア戦争(注12)に精力を削がれ、米国もまたスペインから奪ったばかりのフィリピンで独立を目指すゲリラの鎮圧に大わらわであった(注13)ことから、日本等にも出番が回って来たのです。

(注121899?1902年。第二次ボーア戦争(Second Boer War)なし南ア戦争(the South African War)とも呼ばれる。6,000?7,000人のボーア人兵士、20,000?28,000人のボーア人一般住民、恐らく20,000人の黒人、そして22,000人の英軍兵士が命を落とした。(http://en.wikipedia.org/wiki/Boer_War。6月14日アクセス)(コラム#310及び私のHPの掲示板No.302参照。このほか、コラム#176609729でも言及。)

(13)米比戦争(The Philippine-American War1899?1902年)では、140万人以上のフィリピン人、8,000人以上の米兵が命を落とした(http://www.atimes.com/atimes/Front_Page/GF14Aa03.html。6月14日アクセス)。

連合軍で問題になるのはどの国の軍人が指揮を執るかです。

失敗に終わった第一次北京進撃においては、英国のセイモア(Saymour)海軍中将が最先任ゆえ、指揮を執りました。

天津攻略においては、セイモアが不在だったので、その次に先任であったロシアの陸軍大佐が指揮を執ることになったのですが、英軍だけは彼の指揮下に入ることを拒否しました。

その後、義和団に公使が殺されていることや英国軍がボーア戦争ですっかり評判を落としたこと等から、各国間の調整を経て、ドイツのワルデルゼー(Waldersee)陸軍元帥が連合軍総司令官となったのですが、彼が支那に到着するまでの間に、総司令官抜きで第二次北京進撃が行われ、北京が陥落した後になってワルデルゼーは着任します。

それ以降、義和団平定作戦が行われるのですが、平定作戦に総司令官は必要ないとして、米軍とフランス軍は彼の指揮下には入りませんでした(http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-hokusin.html前掲)。

このほか、米英だけが度量衡の単位が違う(ヤード・ポンド法)であったため、メートル・グラム法のその他の諸国との間の連携に時々齟齬を来したようです。

  エ 米英日軍対欧露軍

 この8カ国の連合軍や公使館地区籠城部隊は、大きく二つのグループに分かれることになります。米英日の各軍と欧州及びロシアの各軍です。

 どうしてそんなことになったのでしょうか。

 かねてより英米の軍人達は、同じアングロサクソンとして、(日本軍以外の)連合軍の残りの5つの白人国の軍人達に対して人種的優越感を抱いていました。むろんこれは、白人が有色人種より人種的に優れているという大前提の下での話です。

 1898年の米西戦争が始まる直前、ある米国人(Albert Beveridge)は「われわれ<アングロサクソン>は征服人種であって、・・新しい市場を、更に必要に応じて新しい領土を獲得しなければならない」と記していますし、義和団の乱の時には、公使館地区籠城組のある米国人宣教師は、「英国と米国の青年は、あり合わせの軍服を着ていても、その凛々しさからすぐ見分けがつく。私はわが人種が誇らしい」と記していますし、同じく籠城組の英国軍人は、「大陸の連中(Continentals)の多くは、大部分の時間タバコを吸ったり酒を飲んだりして、運命に自らを委ねようとしていたのに対し、よりエネルギッシュな・・アングロサクソンは・・上着を脱ぎ捨て、作業に精を出していた」と記しています。

 こういうわけで、籠城部隊の英米の軍人達は、自分達の間では、仏独伊露の軍人について、それぞれ、カエル野郎(Dago)、ザウアークラウト野郎・マカロニ野郎・ウォッカ野郎、と侮蔑的隠語で呼んでいたといいます。

 ところが、英米の軍人達は、連合軍や籠城部隊において日々日本軍人と接触することによって、自分達の上記の世界観の修正を余儀なくされます。

 すなわち、彼らは日本人を、二段階特進させて、アングロサクソンに準ずる存在だと認めるに至るのです。

(続く)