太田述正コラム#7652005.6.24

<中共の経済高度成長?(その7)>

 トウ小平は最初から中共経済を資本主義化しようと考えていたわけではありません。

 トウ小平がまずやったことは、トウ同様にしたたかに生き延びてきた中共幹部の一人で経済テクノクラートを自負していた陳雲(Chen Yun1905?95年)(注20)の意見を入れて、巨大プロジェクトの大部分を取りやめ、軽工業やサービス産業への投資に切り替えたこと政府の農産物買い上げ価格を引き上げたことです。

 (注20)トウ小平時代は、表向きの「トロイカ体制」(トウ小平・胡耀邦総書記・趙紫陽首相)を、非公式な「八老体制」(トウ小平、陳雲、李先念、彭真、トウ頴超(女性)、楊尚昆、薄一波、王震)・・どちらも中心はトウ小平・・が監督・指導する体制でスタートした(http://allabout.co.jp/career/politicsabc/closeup/CU20050127A/。6月23日アクセス)。

 軽工業を重視したのは、重工業に比べて労働集約的なので、文革で下放されていた青年達や投獄されていた人々の雇用の確保につながる、と考えられたからですし、農産物買い上げ価格が引き上げられたのは、それまで重工業化の資金を捻出するために農民が搾取されすぎてきた、という反省からです。

 もっとも、以上は中共経済の資本主義化とは直接関わりのないことです。

 資本主義化は偶然のきっかけで始まったのです。

 中共の幹部達の共通のコンセンサスは、人民公社は維持できない、というものでした。生産手段のみならず、食堂等の非生産手段まで共有しなければならなかったのですが、これは悪評さくさくでした。

 そこで、このコンセンサスが実行に移され、1979年から、人民公社を廃止し、少人数での農業経営が認められることになりました。そして、生産手段は共有というしばりは残されたのですが、農民達は、政府が割り当てた計画収穫量を超過達成した分は自由に売買しても良いということにしたのです。

 ところが、実際にこれが実行に移されるとトウらが予期しなかったことが起こりました。

 一つは、「少人数での農業経営」が認められるのなら「家族での農業経営」でもよかろうと、北京から離れた広東省や四川省等で農業の家族経営が始まったのです。この動きは次第に全国に波及し、農業総生産に占める家族経営の比率は1983年には98%に達しました。つまり、農地こそ引き続き公有であったものの、農業経営は1983年までに社会主義から資本主義に切り替わってしまったということです。

 もう一つ予期しなかったのは、その結果、中共の農業収穫量がどんどん増えたことです。1978年には3億500万トンだった穀物生産量は、1984年には4億700万トンに急増しました。しかも、この増加は作付け面積が減少したにもかかわらず生じたのです。減少分は商用作物や、家畜の飼育にあてられました。家畜の飼育は禁じられていたにもかからわず・・。

当然農村の購買力は高まり、肥料・農業機械・日用品・住宅等への需要が増え、農村の工場がつくられます。そして、10年間で農村における工業生産は全国の10%から30%へと三倍にもなるのです。

今でこそ、農村と都市の経済格差が問題視されていますが、中共の資本主義化はこのようにして(意外な成り行きで)農村から始まり、農村が都市より先に豊かになるという形で始まったのです。

(以上、PP32?34による。)

では、摩天楼が屹立するSF的な上海の浦東(Pudong)地区に象徴される中共の都市部のめざましい発展(注21)はどのようにして起こったのでしょうか。

(注21)スタッドウェルの本の表紙は浦東地区の夜景だ。もっとも、ノーベル経済学賞を受賞したマネタリストの巨頭フリードマン(Milton Friedman)は、最初の頃は中共の改革・開放政策を賞賛していたが、1990年代末に浦東地区を視察してから、すっかり考えを改めたと伝えられる。フリードマンは浦東地区について、「これは<中共の>市場経済の象徴などではない。亡くなった皇帝(トウ小平)に捧げられた国家的記念碑だ」(PP171?172)、とか「巨大なポテムキン村(ロシアのエカテリーナ大帝(Catherine the Great)にいかにロシアの一般臣民が良い生活をしているかを見せるために、彼女の大臣にして愛人であったポテムキン(Grigori Potemkin)によってつくられた村)だ」(PP324)と言ったという。

(続く)