太田述正コラム#10283(2018.12.30)
<謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』を読む(その20)>(2019.3.21公開)

 「尹騏の著作『潘漢年の情報の生涯』は、潘が日本軍の「清郷工作」・・・南京政府(汪兆銘政権)の支配地域では、点と線の日本軍駐屯地域以外では、重慶政府(国民党政権)の忠義致国団<(注25)>や共産党系の新四軍の勢力が跋扈し、治安の攪乱、経済の破壊工作を行っていた。このような動きに対して、南京政府が取った措置が「清郷工作」である。1941年5月、清郷委員会(委員長には汪兆銘が就任)が設立され、軍事面では日本軍が責任を負って治安作戦を行い、政治面では汪政権が政治・行政・経済・文化工作を通じて「敵」に感化された民衆を・・・慰撫することになった。「三分軍事・七分政治」を方針年、まずは<ていた>・・・。清郷工作は、軍事、軍事、政治、経済、思想の各段階に分けて行われ、「政治清郷」では中日親善、和平建国を宣伝する一方、強固な自治制(住民の自衛組織である保甲制度)を基礎に、着実に政治力を浸透させ、治安回復の成果があったとされる。しかしその後、南京政府の実権争いや新四軍による民衆扇動の影響で下火になり、1943年秋には実質的に停止された・・・情報を入手する経緯を次のように記している。

 (注25)全く調べがつかなかった。

 「・・・李子群は上海に戻ったのち、再び潘に会った。
 彼は潘に日本・傀儡軍がしばらくは大規模な軍事掃蕩を行わない条ky法を伝えるとともに、今後とも新四軍方面との連絡を強化し、情報を交換したいと表明した。…
 潘は・・・、李の紹介で、彼の軍事顧問だった日本の華中[中支那]派遣軍情報課長の都甲<(注26)>大佐と会見した。…

 (注26)都甲徠(陸士33期 陸大44期)。昭和17(1942)年1月時点において、参謀本部支那課長で大佐。
http://ginnews.whoselab.com/080101/tsuido.htm
 「東條英機<は、>陸軍大臣<当時、>・・・「ヤマ機関」と言う・・・防諜機関<を作り、>・・・東條が首相になった1941年に<は、それを統括する、>[陸軍省調査]部長<に>・・・三国[直福]が・・・就任し、以降終戦まで桜井鐐三、上田昌雄、都甲徠、岩畔豪雄が<部長に>就任した」
https://ameblo.jp/recrutarou/entry-12231714971.html
https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12373909854.html ([]内)

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[ヤマ機関について]

「・・・陸軍省組織図(昭和16年開戦当時)を見ると東條英機陸軍大臣直轄の「調査部長(三国直福少将)」(※昭和17年・軍事資料部に改編)の指揮下に「防諜部長(植田謙大佐)とあり、その下に「兵務局分室(秘匿名ヤマ)東京・本部」と記載されています・・・。
 まずは、「裁かれる歴史ー敗戦秘話ー」から、田中隆吉少将・・・の説明を見てゆきましょう。・・・
 「・・・わが陸軍も・・・秘密警察組織をもって居た。その名は<ヤマ機関、別名>三国機関である。
この秘密機関の創設は、板垣陸軍大臣時代の末期昭和十四年の四月である。・・・その・・・人員も僅少であつた。従ってその活動範囲もスパイ行為の追及のみに限られ、追及の対象は主として外国人であつた。そしてその管轄は憲兵司令官に属して居た。
昭和十五年七月、東條氏が陸軍大臣になると、・・・直ちにこの機関を大臣直轄とし、その内容を拡充して政治部門と防諜部門の二つに分かち、・・・<彼が首相兼陸相になった昭和十六年には>その指揮者<たる陸軍省調査部長・・昭和十七年に軍事資料部長に改める・・>には三国直福中将を選び、優秀な憲兵将校と政治情報の蒐集に堪能な民間人を起用して機関員とした。・・・
この機関の存在を知るものは<陸軍>大臣、次官、関係局長等の極めて少数のものに限られ、その活動は極秘中の極秘とせられていた。・・・この機関の特徴は機密費が極めて豊富であつたことと、捜査の実行のためあらゆる最新の科学的資材を完備して居たことである。
科学的捜査資材・・・の一つは録音機である。この録音機は極度に小型な精巧なものであつて、之を部屋の壁の中に装置すれば、その部屋の中で取り交はされる総ての音声が記録せられる。又バンド止め兼用のスパイカメラもある。このカメラは路上で行き違つた人の面影を突差に而も確実に撮影することが出来る。その外に精妙な電話窺取器材(無線電信探知機)暗号解読の電気装置など近代科学の粋を集めたあらゆる捜査器材を備へて居た。中野正剛氏の東條内閣打倒の陰謀に関し、伸つ引きならぬ証拠を摑んだのは、電話の窃取と交詢社内に装置せられてあつた録音機の賜物である。
東條氏によつて完成せられた・・・三国機関も、その防諜部門は民間に対してあまりに大なる害毒は流さなかつた。何んとなれば太平洋戦争開始後は内地に於てはスパイ的存在が殆んどなかつたためである。然し政治部門の活動は、アンチ東條の政客や団体を戦慄せしめた。
政治部門に集まつた情報は大小となく殆んど毎日三国氏<やその後任部長達>から東條氏<やその後任陸相達>に直接通告せられた。東條氏<ら>はこの通告に基いて、必要と見れば直ちに憲兵隊に通じ、逮捕或は取り調べの実行を命じた。・・・」・・・」
https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12373909854.html 上掲
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 都甲は次のように述べた。
 清郷工作の目的は社会治安の強化である。
 日本側の当面の最大の関心事は、津浦(しんぽ)線南区間の鉄道輸送の安全である。
 新四軍がこの区間の鉄道交通を破壊しないかぎり、新四軍とのあいだに緩衝地帯を設けることを考えてもよい。
 これに対し潘は次のように答えた。
 新四軍の勢力拡大は非常に早い。
 現在、農村根拠地を着実に強化、拡充しており、鉄道交通線や他の重要な交通拠点を直ちに占領する意図はない。
 日本軍は新四軍に一定の生存条件を与える必要がある。
 さもないと、遊撃隊がいつでも鉄道交通を襲撃・破壊することになろう」・・・」(140~141、151~152)

⇒こんな面談記録はメーキングされているに決まっており、大事なことは、中共と帝国陸軍が密接な情報交換、調整、を行っていたということです。
 そういう認識を持てば、清郷工作が「実質的に停止された」理由は明らかでしょう。
 日本軍占領地域(=汪兆銘政権「統治」領域)内から、帝国陸軍と中共の事実上の共同掃蕩行動によって国民党勢力が駆逐されるに至ったことから、清郷工作は成功裏に完了したから、ということです。
 では、なぜ、「実質的に停止」にとどめたのか?
 同地域で中共勢力が蔓延っていることが大方の人々には明らかであった以上、対国民党政権を含め、世界に向けて、日本軍(≒汪兆銘政権)が、正式に清郷工作「終了」表明をするわけにはいかなかった、というわけです。(太田) 

(続く)