太田述正コラム#10333(2019.1.24)
<丸山眞男『政治の世界 他十篇』を読む(その6)>(2019.4.15公開)

 「一般に、市民的自由の地盤を欠いたところに真の社会科学の生長する道理はないのであるが、このことはとくに政治学においていちじるしい。
 斯学の祖先であるプラトンやアリストテレスの政治学の背景にはギリシャ民主政の絢爛たる展開があり、それが彼等の理論に汲めどもつきぬ豊富な素材を提供したことはあらためていうまでもない。
 プラトンのようなどちらかといえば反民主的な思想家にしても、その思索を内面からささえていたものは、結局ギリシャの政治的自由であった。
 そのことは、マケドニアの覇権によって、ポリスの自由が喪われるや、理論的関心は急速に政治的現実から去って、ストアやエピクロスに見るごとき、個人的安心立命の問題に注がれ、もはや『国家論(ポリティア)』や『政治学(ポリティカ)』の継承も発展も現われなかったということからも明瞭である。

⇒丸山のこのくだりの主張は意味不明です。
 アテナイでは、いわゆる民主制成立後も、奴隷や農奴はもとより、女性にも「市民的自由」ないしは「政治的自由」は認められておらず、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%86%E3%83%8A%E3%82%A4
そんなものを、まともな民主制と呼べるかどうか疑問ですが、例えば、一般に専制的というイメージのあるスパルタにおいても、このアテナイ並みの「民主制」は行われていました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%AB%E3%82%BF
 また、ギリシャ世界以外でも、例えば、共和制ローマでも、この両ポリスと大同小異の「民主制」が行われていました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E5%92%8C%E6%94%BF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E
 ところが、こういった、古代地中海世界各地に存在した「民主制」諸「国」中、『国家論』や『政治学』といった「政治」について研究が行われたのは、アテナイにおいてだけであり、それは、特殊にして例外的な現象でした。
 丸山は、彼なりの民主制の定義を開示していないばかりか、どうして、似たような「民主制」であった諸「国」中、アテナイだけにおいて、「政治」についての研究が行われたのか、も説明しようとしていませんが、あなたはどうして、少数の住民達だけに「市民的自由」ないし「政治的自由」が認められていた「民主制」諸「国」においてのみ「政治」についての研究がなされうる、と主張するのか、と混ぜっ返したくなってしまいます。
 (私であれば、そういう、特定の時代の特定の地域に見られた政体に係る特殊にして例外的な研究は、その成果も、時代・地域に羈束された、しかも、特殊にして例外的なものでしかありえないのであって、そんなものは、政治一般についての研究の規準たりえない、と主張するところです。)(太田)

 さらにまた、永い中世のとばりを破って、イタリーにルネッサンスの華が咲きこぼれたとき、そのさきがけをなしたフィレンツェ自由都市のあの溌剌とした雰囲気のなかで、マキアヴェリの『君主論』や『ディスコルシ』<(注4)>が現われて近代政治学の礎をきずいた。

 (注4)「原題は『ティトゥス・リウィウスの初篇十章にもとづく論考』(Discorsi sopra la prima deca di Tito Livio)であり、日本では・・・『政略論』・・・『ローマ史論』、『リウィウス論』、・・・とも呼ばれる。マキャヴェッリは1513年・・・、本書の執筆を開始し、1517年に完成させた(『君主論』は同時期のもので1513年-1514年に執筆したと考えられている。)。死後の1531年に刊行された。・・・本書では政体を君主政、貴族政、民衆政、僭主政、寡頭政、衆愚政の6つに大別して、それぞれの政体が堕落する可能性があると指摘し、それらの特長を兼ね備えた政体こそが最適であると主張した。古代ローマの共和政はその模範例として位置づけられており、本書の論考では歴史を踏まえながら具体的にどのような政治が望ましいかを考察しており、共和政がどのように運営されていたのかを示しながら、現実主義の政治思想を展開している。なお本書の共和主義的な政治観と『君主論』に見られる君主制擁護との関連については、様々な議論がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E7%95%A5%E8%AB%96

 ところが彼の業績もイタリーが近代的発展への途をとざされたことによって、やはりその地に継承者を見出しえなかったのである。」(16)

⇒丸山のこのくだりの主張もまた、意味不明です。
 「ルネッサンスのさきがけをなした」のは確かに「フィレンツェ」であったけれど、当時のフィレンツェは、「自由」都市であったかもしれないけれど、少なくとも「市民的自由」ないし「政治的自由」があったアテナイ的「民主制」ですら全くないところの、メディチ家を中心とした独裁者達が入れ代わり立ち代わり強権を振るう、怪しくも危険な都市だったからであり、マキャヴェッリがその主著『君主論』を献呈した相手もまた、一人のメディチ家の独裁者だったからです。↓

 「コジモ・デ・メディチは・・・<1434>年・・・敵対者を追放し、下層階級と手をむすぶことで名目上は一市民でありながら、共和国の真の支配者となった。・・・1464年のコジモの死後は、その子ピエロにその権力を継承した。孫のロレンツォ<(1449~92年)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%84%E3%82%A9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%81 >の時代には、フィレンツェはルネサンスの中心として黄金時代を迎えた。・・・ロレンツォは、学問と芸術の大保護者で画家のボッティチェッリや人文主義者をその周囲にあつめた<人物だが、彼>は共和国政府を骨抜きにし<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%84%E3%82%A7
 マキャヴェッリ<(1469~1527年)>「の青少年期は、<この>大ロレンツォによる独裁、大ロレンツォ死後に発生したメディチ家追放(1494年)、サヴォナローラの神政とその失脚・処刑(1498年)等、フィレンツェ・・・の激動期に重なる。・・・
 <そして、その晩年のことだが、>新たにフィレンツェの支配者となったジョヴァンニ・デ・メディチ、またその後任者ジュリアーノ・デ・メディチの方でも、長く前政権下の政務に携わったマキャヴェッリを用いることはしなかった<ところ、>1516年に死去したジュリアーノ・デ・メディチの後任にロレンツォ・デ・メディチが就任すると、マキャヴェッリに謁見の機会が与えられた。謁見の場でマキャヴェッリがロレンツォ・デ・メディチに献上したのが『君主論』である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%83%E3%83%AA

(続く)