太田述正コラム#10365(2019.2.9)
<杉山元と厚生労働省(その1)>(2019.4.29公開)

1 始めに

 厚生省は帝国陸軍が作った、という認識は前からありました(コラム#省略)。
 で、それも杉山元構想の一環だったのではないか、と、ふと思い、少し調べてみた結果は・・図星でした。
 なお、帝国陸軍が作った厚生省は、戦後の1947年9月に厚生省と労働省に分離されたけれど、2001年1月に再び合体して厚生労働省になっている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9A%E7%94%9F%E5%8A%B4%E5%83%8D%E7%9C%81
ので、帝国陸軍は厚生労働省を作ったとむしろ言うべきでしょう。

2 調べてみた結果

 厚生省のウィキペディアには、以下のように記されています。↓

 「1938年(昭和13年)1月11日:当時の陸軍大臣寺内寿一の提唱に端を発し、国民の体力向上、結核等伝染病への罹患防止、傷痍軍人や戦死者の遺族に関する行政機関として、内務省から衛生局及び社会局が分離される形で、厚生省が設置される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9A%E7%94%9F%E7%9C%81

 この記述は、帝国陸軍の関与を強調していることを含め、決して間違ってはいませんが、より詳しくは次の通りです。↓

 「・・・1936年6月15日、陸軍省の医務局が「衛生省」の新設に関する意見を発表した 。6月19日、陸相寺内寿一が閣議で壮丁、兵士の健康状態を憂え、保健国策の樹立の必要性を提唱した。7月6日、「衛生省」の設立を促進するための全国医師会が、東京で開催された。 ・・・
 <もっとも、>陸軍が重大視した「壮丁体位の低下」<は>、当時の統計と矛盾する一面があった、といわざるをえない。・・・
 1937年5月14日、陸軍省医務局は、国民体力向上の為の強力な衛生行政の主務官庁構想として、「衛生省 (もしくは社会省)案」を政府に提出した・・・が、内務省などの反対で採用されなかった 。・・・
<今度は、>昭和12年6月<4日の>第一次近衛内閣の成立に際して・・・陸軍は国民の体力を向上させる新しい省の創設を内閣支持の条件として陸軍大臣を推薦してきた・・・。 ・・・
 <更に、>6月15日、陸軍省医務局が、再び「衛生省案」の代案として 、「保健社会省」構想を政府に提出した 。・・・
 7月9日、つまり、「7.7盧溝橋事件」が 起きた2日後、「保健社会省」の設置が閣議で決定された。12月3日、「保健社会省」の設置が枢密院に奏請された。枢密院は、省名を書経・左伝にある「正徳利用厚生」から「厚生」という語をとって厚生省とすることを勧告した。12月29日、厚生省の設置が正式に閣議で決定された。1938年1月11日、厚生省が設置され、同時に、内務省社会局、衛生局が廃止された。・・・
 戦争の環境におかれてこそ、階級の間、各省の間の利益や矛盾が最大範囲に調整され 、陸軍省の「壮丁体位の低下」の宣伝が政府および国民の心を震撼させたのである。『厚生省20年史』においては、日中戦争の勃発が厚生省の設立をいかに促したかに関してつ ぎのようにかかれている。「事変の前途は遼遠で、相当の長期戦を考えねばならなくな り、それに対処するため、保健社会省の創建は一日の遷延も許さずとの結論に達し、同省の早期設置を決意するに至った」。元厚生次官・岡田文秀がかたった「発足当時の厚生省は、……戦争の生んだ申し子のようなもの」である、という表現は、厚生省の創設と戦争とのかかわりを非常に適確にあらわしている 。」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jssw/36/2/36_KJ00006852471/_pdf

 では、ウィキペディアで言及されるべきは杉山である理由を説明しましょう。
 まず、ウィキペディアで寺内の名前が挙がっている点についてですが、寺内が陸相に就任したのは、1937年3月9日である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%86%85%E5%AF%BF%E4%B8%80
ところ、同年の二・二六事件の余波で、その翌日の3月10日には荒木・真崎・阿部・林の4名の大将達が予備役に編入されることはもとよりですが、前陸相で大将の川島義之が予備役に編入(3月30日付)されること、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6
も決まっていたと思われ、残された大将は、寺内、西義一、植田謙吉、の3名だけとなる見込みであり(コラム#10042)、当時中将であった杉山よりも序列上位の中将であった本庄繁中将(侍従武官)が予備役に編入(4月2日?)されること、序列上位であった可能性がある香維椎浩平(かしいこうへい。同期。東京警備司令官(前任は西義一))もまた予備役へ編入(4月2日)されること、
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E6%A4%8E%E6%B5%A9%E5%B9%B3
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E8%AD%A6%E5%82%99%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%83%A8 >
が決まっていたと思われ、杉山は、当時の中将中で序列1位、すなわち、陸軍全体でも(閑院宮は別にして)4位、になると目されていた可能性が高いと思われていたと想像され、他方、川島が陸相に就任した時に、候補に登っていたのは、他には、(二・二六事件で殺害された)渡辺錠太郎、と、西、そして、植田、だけであった、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B3%B6%E7%BE%A9%E4%B9%8B
というのに、とっくの昔に予備役に編入されていてしかるべきだったことが知れ渡っていた(コラム#省略)ところの、「無能」な寺内
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%86%85%E5%AF%BF%E4%B8%80
が、こんな「非常時」に陸相に就任する運びになったのは、当時、(事実上の参謀総長であったところの)参謀次長であって、形だけの参謀総長の閑院宮を通じて陸相人事に容喙できた、というか、彼の了承なしには陸相人事が行い得なかったところの、杉山の差し金であって、寺内は杉山の意向通りの言動を行わざるをえない立場であった、と、私には思われるからです。

(続く)