太田述正コラム#10371(2019.2.12)
<杉山元と日本型政治経済体制(その3)>(2019.5.2公開)

 このように考えて、初めて、杉山のそれと一貫してシンクロし続けたところの、爾後の木戸の言動のよってきたる所以が説明できるし、木戸が1930~48年にわたって日記(木戸幸一日記)を書き綴り、
https://kotobank.jp/word/%E3%80%8A%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%B9%B8%E4%B8%80%E6%97%A5%E8%A8%98%E3%80%8B-1298856
それを極東裁判に、天皇免責と陸軍悪玉論の証拠として提出した所以・・杉山から言われたラインでメーキングした内容を記し続けた(注2)と想像される・・、また、終戦近くから晩年にかけて荒唐無稽な発言を続けた(注3)所以、もまた、分かろうというものだ。 

 (注2)「『木戸日記』は、軍人の被告らに対しては不利に働くことが多かったため、軍人被告<達>の激しい怒りを買うことになった。」(※)
 (注3)木戸は、「昭和20年3月3日、宗像久敬に対して、<ソ連を通じた和平工作をすべきだとして、>ソ連は共産主義者の入閣を要求してくる可能性があるが、日本としては条件が不面目でさえなければ、受け入れてもよい、という話をしている。さらに「共産主義と云うが、今日ではそれほど恐ろしいものではないぞ。世界中が皆共産主義ではないか。欧州も然り、支那も然り。残るは米国位のものではないか」とし、「今の日本の状態からすればもうかまわない。ロシアと手を握るがよい。英米に降参してたまるものかと云う気運があるのではないか。結局、皇軍はロシアの共産主義と手をにぎることになるのではないか」と述べている。(「宗像久敬日記」)・・・
 <また、昭和22年、>いかに自分が軍国主義者と戦い、政治的には非力であったかを述べ<た。(極東裁判における宣誓供述書)>・・・
 <そして、>昭和50年代に、保阪正康<が生前の木戸幸一に取材し、「なぜ、東条や陸海軍の軍事指導者はあんな戦争を一生懸命やったのか」と書面で質問し<た際>、その答えの中<で、>「彼らは華族になりたかった」と<記している>。満州事変の関東軍の司令官の本庄繁は男爵になっている。東条たちは爵位がほしかった。それが木戸の見方だったと<保阪は>述べている。」(※)
 ちなみに、宗像久敬は、(内務省に入ってその後に東大法教授に転じた)南原繁と東大政治学科を同点首席で卒業し、日銀に入り、調査局長、上海駐在参事。日銀同期の原田熊雄から、宗像が個人的に親しかったところの、(政府/軍部以外の人物が天皇に会うのを禁じていた)木戸に対し、(終戦話を念頭に)重臣達を天皇に会わせるよう申し入れるよう依頼を受け、木戸に1月27日に面会して「世間では天皇・皇室に対する不満の声が出始めており憂慮すべき事態である」・・但し、典拠は『木戸日記』だが・・という脅しめいた申し入れを行い、それを飲ませている。
http://www2.rikkyo.ac.jp/web/matsuura_site/pdf/1901.pdf
 このおかげで、近衛は、(私見では、杉山から木戸への指示の下、)他の重臣達同様、(首相を辞めてから)会えなくなっていた天皇に、やっとのことで2月14日に会うことができ、その折に、彼が天皇に提出したのが有名な近衛上奏文
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%B8%8A%E5%A5%8F%E6%96%87
であり、3月3日の木戸の宗像への発言は、ソ連/共産主義を敵視して米英と直接和平の話を行うよう求めた近衛上奏文を、(私に言わせれば杉山らの意向を踏まえて)論駁しているわけだが、近衛の軍部観に関してだけは、それが誤りであることを熟知しているはずなのに、それと類似した荒唐無稽な発言を行ったのは、軍部、就中、(自死せずに)生き残ることになると目される帝国陸軍の将官達を呆れさせ怒らせることで自分と杉山らとの一体性を否定し、そのことによって、杉山構想の秘匿をより完璧なものにするための布石であった、と私は見ている。

 木戸の杉山との関係を示唆しているのが、近衛上奏の際の木戸の行動だ。
 「1945年2月14日の朝、木戸内大臣が侍従長室に姿を見せ、藤田尚徳侍従長に、「藤田さん、今日の近衛公の参内は、私に侍立させてほしい。近衛公は、あなたをよく存じあげていない。それで侍従長の侍立を気にして、話が十分にできないと困る。ひとつ御前で近衛公の思う通りに話をさせてみたい」と要請した。藤田侍従長は快諾し、木戸と近衛の二人が昭和天皇に拝謁し<た。>」(上掲)というのだが、これは、上奏文の内容を既に、(この上奏文執筆に関与した)吉田茂の大磯邸に住み込んでいたスパイ(注4)を通じて憲兵隊が入手しており(上掲)、事柄の重要性に鑑み、当時、二度目の陸相の座(1944年7月22日~45年4月7日)にあった杉山
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3 前掲
も直ちに把握するところとなって木戸に注意喚起をしていた、と想像され、侍立することで、近衛に無言の圧力をかけると同時に、近衛と天皇とのやりとりの内容を直接把握してそれを可及的速やかに杉山に伝えるのが目的だったと思われる。

 (注4)このスパイ(男性)が、既に吉田の東京邸に送り込まれていたスパイ(女性)の知り合いとして送り込まれたのは、1944年11月29日であり、
https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2015-12-29
東京邸のスパイも含め、杉山の陸相としての直接の采配であった可能性が高いのではないか。
 西園寺に対する熊谷(後述)、昭和天皇に対する木戸、の高級スパイとしての送り込み、を併せ考えれば、杉山の用意周到さに舌を巻かざるを得ない。

 「幸い」、近衛の、上奏文中の奇矯な陸軍赤化論・・1月に近衛は木戸宛書簡でこの論を開陳していた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%B8%8A%E5%A5%8F%E6%96%87 前掲
ので木戸自身にとっては二重の意味で目新しいものではなかった・・、と、天皇から陸軍人事について聞かれた際に、近衛が、真崎甚三郎や山下奉文といった、二・二六事件で失脚し、「天皇<が>・・・嫌悪していた」将官達も推薦した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF
こと、によって、天皇が近衛の奏上全体に否定的印象を抱いた(上掲)ことに胸を撫で下ろした、と思われる。

 蛇足ながら、杉山メモと上出の木戸幸一日記が、戦前史における双璧たる超一級一次史料群とされてきたのだから、それらに依拠して執筆された戦前史が、ことごとく訳の分からないものであり続けてきたのは当然だろう。
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(続く)