太田述正コラム#10373(2019.2.13)
<杉山元と日本型政治経済体制(その4)>(2019.5.3公開)

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[木戸幸一と原田熊雄・近衛文麿との亀裂]

 1945年1月という禍機において、どうして、ずっと木戸と行動を共にしてきたはずの原田熊雄(注5)や近衛が、直接木戸に会って申し入れを行わず、宗像を使ったのかが問題になる。

 (注5)1888~1946年。「学習院高等科から京都帝国大学へと進学し、同級生の近衛文麿や木戸幸一、織田信恒など華族の子弟たちと交流をもった。この人脈は、のちに「宮中革新派」と呼ばれるようになる華族の政治的グループ(十一会)への関与に見られるように、彼の政治的背景を形作ることとなった。・・・1910年(明治43年)、祖父・原田一道の死去にともない家督を継承し、1911年(明治44年)1月23日、男爵を襲爵。・・・
 京都帝大卒業後の1916年(大正5年)に日本銀行に入行するが、6年後に退行。宮内省嘱託として<欧州>を見聞した後、1924年(大正13年)から加藤高明内閣で内閣総理大臣秘書官を務めた。
 1926年(大正15年)7月、住友合資会社に入社。事務取扱嘱託の身分のまま、同年9月、元老・西園寺公望の私設秘書に就任。このことは日銀退行時から西園寺と近衛や木戸の間で話が進められていた。・・・
 二・二六事件が発生した際には、東京平河町の自宅で就寝していた。6時前に木戸からの連絡で事件を知り、宮内省へ向かおうと家を出たが反乱部隊の歩哨があちこちに立っているため自宅へと戻った。原田も暗殺の標的にされているとの連絡を受け、隣家・・・に塀を越えて避難して事なきを得ている。・・・
 1940年(昭和15年)の西園寺没後、軍部独裁の流れに対して原田は抵抗を試みる。原田は軍部から親英米派と目されており、これより遡るが二・二六事件においても暗殺の対象とされていた。軍部が擁立する東條内閣の打倒を目標に、近衛文麿や吉田茂、樺山愛輔など親英米派(重臣グループ)と共謀し、終戦工作を秘密裏に計画する。しかし計画は憲兵隊の内偵工作によって発覚。1945年(昭和20年)4月、吉田が検挙され、近衛や原田自身も取り調べを受けるなど、計画は頓挫するに至った(「ヨハンセン<(=吉田)(太田)>グループ」事件)。・・・
 『西園寺公と政局』<は、>・・・1930年(昭和5年)から、西園寺が没する1940年(昭和15年)までの西園寺を取り巻く政局動静を、近衛秀麿夫人・泰子を筆記役に口述、没後は里見弴(本名:山内英夫)に原稿整理を委託するが、軍部<・・戦後に軍部?(太田)・・が同日記を危険視したため中絶・・・。原田没後に行われた極東国際軍事裁判(東京裁判)において、証拠として『木戸日記』と共に採用された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E7%86%8A%E9%9B%84

 私は、杉山が、木戸に言い含め、近衛を通じて原田を元老で「最後の元老」たる親英米派の西園寺公(1849~1940年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E6%9C%9B
の下へスパイとして送り込んだ、と見るに至っている。
 (杉山は、原田が日銀を退行した1922年には航空課長であり、木戸と親しくなってすぐにそんな画策をさせた、というのが不自然であれば、木戸との出会いを杉山の陸軍飛行第2大隊長・・典拠は「航空第2」とあるが「飛行第2」とした(太田)・・時代(1918~22年)
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/ziketu-sugiyama.htm
まで遡らせればよかろう。)
 (どちらも、杉山構想を明かされていなかった、と私が見ているところの、)近衛も原田も、そんなこととはつゆ知らず・・。
 しかし、西園寺の動静は、折に触れて原田に会い続けたはずの木戸を通じて、杉山に逐一伝えられていた、と。
 二・二六事件の時に、木戸からのものを含め、原田に対して2度も注意喚起がなされた(「注5」)(注6)のは、杉山にとって、まだ原田を生かしておく必要があったからだろう。

 (注6)木戸が興津の西園寺邸に電話をかけたのは午前6時40分頃であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6
西園寺の原田への電話の方が40分以上早かったのは、(殺されて欲しい!)西園寺には注意喚起などしたくなかったけれど、秘書に注意喚起して本人に注意喚起しないわけにはいかなかったのと、西園寺が生き残った場合に、絶対に原田に死んでもらっては困ったからだと見る。
 (木戸は、原田には、自分から西園寺に電話すると伝え、原田が直ちに西園寺に伝えないようにしたのではないか。)
 この原田が、いつ頃、木戸と自分が相いれない考えを抱いていることに気付いたのかは断定はできないものの、恐らく、木戸が(杉山の指示で)東條を首班に担ぎ上げた1941年10月ではなかろうか、その結果、爾後、原田も、そして、最後まで原田と親友関係であり続けたと思われる・・原田は近衛と時間を問わず近衛の自宅の寝室まで直行できたり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E7%86%8A%E9%9B%84 前掲
近衛文麿の異母弟の妻(文麿の妻の妹)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%A7%80%E9%BA%BF
を口述筆記者として使えたり、するような関係を保ち続けた・・近衛も、共に、木戸とは絶交状態に入ったのではないか、と想像される。
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(続く)