太田述正コラム#8022005.7.24

<「フランス」の近代への貢献(その2)>

 (8月4日から12日まで、旅行に出るので、その間はコラムの上梓はありません。9日まではインターネット環境も離れるので、4日?9日のガーディアン・BBC・ワシントンポスト・NYタイムス*・フィナンシャルタイムス*・クリスチャンサイエンスモニター・ロサンゼルスタイムス・CNN・朝鮮日報(英語版)・人民網(日本語版)、それぞれのホームページ(NYタイムスとクリスチャンサイエンスモニター掲載の書評を含む)と国際ニュースページと(BBC・フィナンシャルタイムス・CNNを除く)論説ページとに掲載された「面白い」記事・論説のURL(*にあっては、記事・論説そのもの)を私に代わって収集していただける方はいらっしゃいませんか。もちろん、上記日数・対象の一部でも結構です。)

(本篇を上梓したのは、7月22日です。)

3 ルイ14世の重商主義政策

 贅沢品のメッカとして特定の国や地域が周辺の国や地域から仰ぎ見られる、という前例はそれまでにもなかったわけではありません。

 例えば、古代ローマがそうでしたし、ルネッサンス期のイタリアもそうでした。

 しかし、後者の場合、第一に場所で言えば、イタリア以外に住んでいた人々がイタリア風の衣服をまとい、イタリア風料理を食べたことはほとんどありませんでしたし、イタリアの中でさえ、宮廷関係者を越えて一般の住民がこれらの贅沢にあずかることはほとんどありませんでした。また第二に時間で言っても、これらの贅沢が仰ぎ見られた期間は極めて限られていました。

ところが、フランス風の贅沢は、生まれてから三世紀半経過した現在において、なお仰ぎ見られているのです。

 ルイ14世のフランスにおいてはまず、ルイ14世を見習って、宮廷関係者を越えて、一般のフランス臣民の間でも贅沢への熱狂・・贅沢バブル・・が起こりました。みんなが借金をしてまでルイ14世風の贅沢のお裾分けにあずかりたいと狂奔したのです。

 ここで重要なのが、ルイ14世の蔵相(contrôleur général des financesコルベール(Jean-Baptiste Colbert1619?83年。蔵相1665年?83年)が果たした役割です(注2)。

(注2)コルベールの経済政策を重商主義(mercantilismColbertismeという。高関税で輸入を抑制する一方で、外国人がフランスの植民地との貿易に携わることを禁じ、輸入代替のための勅許会社を数多くつくるとともに、他国にマネのできない贅沢品の生産・輸出を奨励することによって輸出を伸ばし、フランスの保有する金銀の増加を図った。

しかし、フランスの国内経済は中世の状況のまま放置された。すなわち、小作人や職人は商業ギルドや工業ギルド内に閉じこめられ、国内のモノやヒトの流通は規制や交易税のために妨げられていた。税金は著しく逆進的であり、(土地所有者たる)貴族や僧は税金を免除され、(輸出に携わる)企業家は優遇された。港と輸出産業拠点を結ぶ道路だけは整備されたが、道路整備には領主(及び国)の中世的特権に基づき、小作人や耕作用牛馬が徴用された。(http://cepa.newschool.edu/het/profiles/colbert.htm。7月22日アクセス)

 「芸術家」であったルイ14世が自らつくり出し、あるいはルイ14世の影響下でつくり出された芸術品たる贅沢品を、見た目には分からない程度に品質を落とし、そのかわりリーズナブルな値段に押さえたところの商品たる贅沢品へと翻案し、このような商品たる贅沢品を生産・輸出するフランスの企業家が活動しやすいような制度や税制を整え、更にこれらフランス・ブランド商品の対外向けマーケティングまで行ったのが「実業家」たるコルベール蔵相だったのです。

 コルベールのねらいは、新大陸からスペインを経由して大量に流入してきていた金や銀の流入量が17世紀中頃から大幅に減ったため、国家財政が逼迫したことから、新しい財政収入源を確保することでした。

そして、このコルベールのねらいどおりにフランスの贅沢品産業が発展していった結果、フランスの首都パリの人口は、それまで英国の首都ロンドンに遠く及ばなかったのに、1700年までには55万人とロンドンとほぼ肩を並べるようになるのです(注3)。

 

 (注3)その当時の世界の都市を人口順に並べると、イスタンブール(コンスタンチノープル)、江戸、北京、ロンドン/パリ、となる。しかし、18世紀に入ってからはパリの人口は停滞し、ロンドンに再び引き離されてしまう。

4 コメント

ルイ14世は、以上ご紹介したような贅沢三昧の生活を送った上に、在位中に四つも大戦争(注4)を行っために、コルベールの努力むなしく、フランスの国家財政は破綻状態となり、しかもルイ14世とコルベールのコンビがフランスの中世的秩序を維持したまま推進した重商主義政策は、一握りの企業家を富ませただけでフランスの大衆の一層の窮乏化をもたらします。

(注4)フランドル戦争(War of Devolution1667?68年)、ネーデルランド戦争(オランダ戦争=the Franco-Dutch War1672?78年)、ファルツ継承戦争(アウグスブルグ同盟戦争=the War of the Grand Alliance1688?96年)(コラム#100)、とスペイン継承戦争(the War of the Spanish Succession1702?13)(コラム#100162)の四つ。その「成果」はわずかに、現在に至るフランスの領域の確定とスペイン王室に受け継がれたブルボン家の血筋だけだ。

その結果として、いわば論理必然的に起こったのが、ルイ14世死後74年目のフランス革命であると言って良いでしょう(注5)。

(注5)以前(コラム#148で)「プロト西欧文明の晩期にあってこれを完成させたのが16世紀の<神聖ローマ皇帝の>カール5世だとすれば、プロト西欧文明から西欧文明(狭義)への移行という重要な役割を果たしたのが、西欧最初の国民国家フランスにおける17世紀のルイ13世(在位1610-43年)です。・・ルイ13世のフランスは、国王の下に、国民(ヒト)、国家資源(モノ・カネ)、カトリシズム(イデオロギー)を結集し、これらを手段として西欧における覇権の確立を図ったわけですが、これが民主主義独裁の露払いとなったことは容易に想像ができ<るでしょう>。

」と申し上げたことがある。

ルイ14世は、父ルイ13世の始めた事業を忠実に継承発展させることによって、フランス革命とそれに引き続く民主主義的独裁の時代の到来を早めたわけだ。

 しかし、フランスという国家を破綻に追いやる一因となった贅沢三昧のおかげでルイ14世が生み出した近代ファッションと近代料理がなかったなら、われわれの現在の生活はどんなに味気ないものになっていたことでしょうか。

歴史とはまことに面白いものですね。

(完)