太田述正コラム#10399(2019.2.26)
<丸山眞男『政治の世界 他十篇』を読む(その25)>(2019.5.16公開)

 「国内国外を問わず政治集団の行う儀式、特に軍事的威力を誇示する観兵式<(注29)>・観艦式<(注30)>・演習、ないしはデモンストレーションなどは全てこうした威信を示す技術といえましょう。

 (注29)military parade。「19世紀後半までの軍隊では行進と戦闘が分かちがたく結びついていた」ことの名残。(戦後日本では観閲式と呼ぶが、「兵」が禁字ゆえ。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E5%85%B5%E5%BC%8F
 観兵式の起源は、フランスでフランス革命の時のバスティーユ襲撃記念日に挙行されたもの。
https://en.wikipedia.org/wiki/Military_parade
 (注30)naval review。「観艦式の起源は、1341年、英仏の百年戦争の最中に、<イギリス>の王、エドワード3世が出撃の際、自軍艦隊の威容を観閲したことに始まる。また、現在各国で行なわれている観艦式の様式は、1897年・・・<英国>のビクトリア女王即位60年祝賀の際に挙行されたものが基となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E8%89%A6%E5%BC%8F

⇒観兵式も観艦式も、カネと労力が無駄になるだけの前時代の遺物であり、廃止すべきでしょう。
 米国はやっていないはずです。
 (トランプが観兵式をやろうとして軍幹部達からの猛反対を受けて断念した(典拠省略)のを御記憶でしょうか。)
 (なお、絶対的な少数意見でしょうが、私は、儀仗・と列も廃止すべきだと思っています。)(太田)

 実際の実力を巧みに隠蔽して相手に自己を誇示することを俗な言葉でハッタリといいますが、その意味では政治的世界ほどハッタリが通用する世界はないのです。・・・
 政治技術の目標は味方を結集し、組織化すると共に敵を孤立させその組織を解体させること–より詳しくいえば抵抗する明白な敵を、せめても折衝する潜在的な敵にまで引き下げ、潜在的な敵はせめても中立者に、中立者及び潜在的な味方はこれを自己に積極的に協力する明白な味方に転化させるということ、になるわけです。
 政治集団がこの目的のために駆使する戦略戦術は、純粋の説得から純粋の暴力行使に到るまで実に広範多岐をきわめます。
 この際にもまた宗教・学問・芸術・経済などにならぶ政治固有の内容領域はなく、却ってそれ等一切が政治の手段として動員されるということに注目しなければなりません。・・・
 要するにアメリカの国際政治学者クインシー・ライト<(注31)>がいみじくも述べているように、「紛争こそは政治の本質である。

 (注31)1890~1970年。ロムバード単科大学卒、イリノイ大博士。シカゴ大等で教鞭をとりつつ、屡々、米国政府に助言を行った。国際法を国際関係の平和的変化をもたらす手段へと変貌させたとされる。
 戦争をなくすためには戦争を理解しなければならないとして、戦争研究を組織的に行い、それを彼の主著であるA Study of War.(1942年)の中に集約した。
https://en.wikipedia.org/wiki/Quincy_Wright

⇒ライト自身の言い回しを借用すれば、私見では、戦争をなくすためには、紛争を格段に減らし、政治の役割を減らすしかありません。
 そのためには、全ての国の国民達の大宗を人間主義者群にすることが必要条件です。
 戦争の根本原因を見出すための研究なら、それをカネとヒマをかけて行う意味など全くありません。(太田)

 政治に従事する人々は皆一種の闘争に従事している。
 弾丸(bullets)の戦でない場合にも投票(ballots)の戦に、軍隊の戦でない場合にも修辞術(レトリック)の戦に、戦略の戦でない場合にも説得の戦に従事しているのだ」(Q.Wright.”Political Science and World Stabilization”.American Political Science Review. VolXLIV.No.1)だということが以上の簡単な叙述からもほぼおわかりになったことと思います。」(90~91)

(続く)