太田述正コラム#8102005.8.1

<男女平等を考える(その2)>

 (本篇は、上田令子さんによるコラム#808の続きであり、上梓は7月28日です。)

3 男女は違うのか?祖先から学ぶ

自分が結婚妊娠出産で就労の継続に苦労した経験があっても、いやあるからこそ、意志決定機関への階段を容易に上らない女性がいることについては理解ができるのです。

私自身女性で、男性と恋をし、結婚をして男の子を二人産んでしかも育ててみると、まったくもって別の生き物とであると考えさせられることがたびたびあります。「男女の差異」(何度も断っておきますが「優劣」ではなく「差異」)はあると身をもって痛感しています。当初は「男も女も同じはずだ、同じだから!!」とじたばたやって期待して裏切られ、きっと相手もそうでしょうがそうしているうちに「女と男は違う生き物なのだ」と考え直したところ、とても寛容な気持になれて夫や息子達との衝突が激減しました。(もちろん皆無とはいきませんが!)

女と男は違う。サマーズ氏は発言の中で「科学や数学の試験では、男子生徒の方が女子生徒に比べて、非常に高い得点をとる者と非常に低い得点をとる者の割合が多い」(太田述正氏コラムより抜粋)とし物議をかもしだしましたが、私はカチンとくるどころか女としての誇りをもって「そりゃあそうだろう」と納得しました。科学や数学ができなくても十分女は生きていけるし、非常に良い点も非常に悪い点も取らない「平均的」なことは、とても優れたことだと思うからです。

動物界のメスをみればわかるように、メスは常に自分の遺伝子を受け継ぐ子どもを安定的に産み出す平均的な存在で、選り好みをしなければ必ずつがえます。一方のオスは優秀な卓抜した者にメスが集中し、ほかのハズレのオスは一生メスとご縁がないことも珍しくありません。なぜなら、メスが常に優秀な遺伝子を求め、それを持ちうるオスはさらに持ち、そーでないのはさらにハズレになっていく。(疫病が流行ったりなんか環境の変化が起こったときに生き残る遺伝子を持っていてたまーに役立つオスがいるのかもしれませんが。)しかも動物界には一夫一婦制度みたいなもてないオスの救済策(と、上田は思っています)がなかったわけですから、できるオスとできないオスの差がどんどん開いて真ん中が居なくなった、ということが容易に想像ができるからです。

一方メスは少々トウがたっていようが(失敬!)なんだろうが生命を生み出すという貴重な役割を有しており、しかも常に一定以上のニーズがあるわけですから(選り好みしなければオスは市場に有り余っている)他のメスと比べてことのほか優れる必要もないわけです。だから良い意味でも悪い意味でも「平均的」であって良い。争いあってライバルを突き落とす労をわざわざしなくて良いから闘争的な行動パターンが基本的に搭載されてないのではないか。人間だってご先祖はお猿さんで、200万年前くらいにやっと「人」になったわけですから動物界と本当はあまり変わらないのではないか…。

こんなことを考えるきっかけになったのは江戸川ワークマム発足以来、女性を取り巻く問題に取組み、女性学、フェミニズム、ジェンダーフリー、男女平等参画と少子化対策などをどうしたらいいのか考えに考えて、袋小路に入りこみ身動き取れなくなったことです。動物行動学者の竹内久美子氏(http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%DD%C6%E2%B5%D7%C8%FE%BB%D2)やサマーズ氏と同じハーバード大教授であるスティーブン・ピンカー氏(http://pinker.wjh.harvard.edu/)の著書(http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4140910100/qid=1122343740/sr=1-3/ref=sr_1_10_3/250-5663077-1532257)に触れ、ふっと祖先である動物だったらどうだったんだ?と考えたところ、霧が晴れるように謎をひもとく鍵が見つかったのです。

4 女性には「犠牲を払わない意志」がある

子どもを育む特性をもったメスが命をかけて(異性にもてるために)全てを犠牲にして狩り(仕事)や戦争(異性を奪うための闘争)に打ち込むでしょうか?

やっぱり打ち込まないでしょうネ…と私は思うのです。メスが命がけになる(ならざるを得ない)のは出産の時だけです。ただし、動物界のメスはすべて自前でエサを運んで来ますから、最低限子どもと自分が食べられるエサくらいは確保しようとは思うでしょう。私もこの程度のエサで正直十分です。その僅かなエサすら当時の上司は取り上げようとしたから噛みついたわけです。子どもと母親が食べていく僅かなエサを、働く機会を、女性だからという理由で奪うことは男女平等の精神に反するどころか犯罪行為です。しかしながら、法治国家である現代日本社会において、女性役職3割数値が達成されないから即男女平等ではない、と言う発想はあまりに単純すぎて底が浅いと思ったのです。門戸が広がっても、数値目標に達しない陰には「昇進なんかしないでいい。そこそこでやりたい」女性の意志があるのではないか、それを無視してはいないかと考えたからです。

教員や弁護士にはなるかもしれない

でも校長や裁判官まではどうか?

男性のように組織に忠誠つくして派閥の親分に命預けて、家族を犠牲にして仕事に賭けるのか?

それで、がんばったところで男性にもてて?生活が変わる?

いやそこまでしなくても、前述の通り妥協をすれば(失敬!)男性は確保できるし、何より自分の人生を大切にしたいし、子どもがいれば家族を大切にしたい、だからやっぱり女性はしないでしょう…

これこそがサマーズ発言で指摘された「そこまでの犠牲を払う意志」がない原因だと考えます。

私からすれば女性の中に「犠牲を払わない」崇高な意志があるといいたいくらいです。

反省したサマーズ氏、5000万ドルものお金(どこから捻出したのでしょーか?)を女性研究者のために使うことを明言したようですが、生活・人生を最優先に考える女性研究者のために必ず5時に帰れる制度を作るとか、研究棟の中に託児所を設けるとか月並みな事業に使われますように! 得てしてこの手のお金って男性と同じ価値観や働き方をする、できる一部の女性の先端的な事業に投資されてしまうことが多いものなので…。「平均的」な女性に5000万ドルが回ってきますよう太平洋の東から祈っております。

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<太田のコメント>

 上田さんと私とで、考え方が同じでところは少なくありません。

 女性は男性に比べてより平均的であるということ、つまり女性には天才もキチガイも男性に比べて少ない、と上田さんも私も考えている点は同じです。

 そして、平均的な女性(さっきの「平均」とは意味が違うことにご注意)が、男性の父性愛よりも強い母性愛を自分の子供に抱いている、と上田さんも私も考えているわけです。

 子供への強い愛情と、仕事に「そこまでの犠牲を払う意志」とを両立させることは困難であると思われることから、平均的な女性が仕事に「「犠牲を払わない」崇高な意志」があるであろうことも私は否定しません。

 違うかもしれないのは、ここから先です。

 私は平均的ではない女性・・母性愛の強くない女性・・の存在が気になります。それに、平均的でない女性どころか、女性の中には男性に比べれば少ないけれど、天才もおれば、キチガイもいます。

 (性同一性障害の人のことは、ちょっと脇に置いておきます。)

 ですから一人一人の女性を、それぞれ個性を持ち、異なった能力と異なった意欲を持った存在として見ることなく、女性に関する一般論で規定してしまうことに私は反対せざるをえないのです。

 それに、女性に関する一般論で規定されている社会に住んでいるため、母性愛が強くない女性が、その自分をおかしいと思ったり、母性愛が強いと錯覚したりする場合があるに違いないのです。

 ですから私は、女性を十把一絡げにして差別の対象とする日本の役所や大企業の人事管理システムを糾弾してきたのです。

 確かにこれは、合理的な人事管理システムではあります。

 しかし、それは米国でかつて行われていた黒人差別と同じ意味で合理性があるだけです。

 繰り返しになりますが、黒人の中にも優秀でやる気のある人が沢山いるように、女性にも優秀でやる気のある人が沢山いるし、差別構造が黒人の能力を埋もれさせたり意欲を削いだりしている面があったのと同様、差別構造が女性の能力を埋もれさせたり意欲を削いだりしている面があるに違いないのです。(米国における、国務長官の二代続けての黒人からの登用や、一人の男性を中にはさんだ二人の女性の登用を思い出してください。それまでは、一人の黒人も、一人の女性も国務長官になったことがありませんでした。)

 そう言うが、女性を対象にしたアファーマティブ・アクションこそ、女性を十把一絡げにするものではないか、という批判があろうかと思いますが、この点については、前回(コラム#808)申し上げたことで尽きていると思います。

 

(続く)