太田述正コラム#10405(2019.3.1)
<ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む(その2)>(2019.5.19公開)

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[大日本興亜会を巡って]

 困ったのは、かなり重要であると思われる大日本興亜会について、ウィキペディアもなければ、ネットに少し当たった範囲では、初代総裁が誰だったのかも分からない、という有様だったことだ。
 取敢えず分かったことは、元陸相で元首相の「林銑十郎<(コラム#4274、4713、4833、5003、7831、8338、8418、8420、8428、9902、9990、10041、10043、10067、10139、10340、10375)が、>・・・<大東亜戦争>開戦後の昭和17年5月、民族主義団体を結集した大日本興亜同盟(大政翼賛会の外郭団体)総裁に就任<した>」
https://books.google.co.jp/books?id=CmdgDwAAQBAJ&pg=PT75&lpg=PT75&dq=%E8%88%88%E4%BA%9C%E5%90%8C%E7%9B%9F&source=bl&ots=uLxg6Maz5_&sig=ACfU3U2yTf63NPyyH4uKlO6RceJ0A2Gmcw&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwiKldqMs8rgAhUDjLwKHU0rAAE4FBDoATACegQICRAB#v=onepage&q=%E8%88%88%E4%BA%9C%E5%90%8C%E7%9B%9F&f=false
こと、と、同じ時期に水野錬太郎(注2)が大日本興亜同盟副総裁に就任(1942年5月)し、林銑十郎死去に伴い大日本興亜同盟総裁事務取扱に就任(1943年2月)した
https://www.jacar.go.jp/glossary/gaichitonaichi/career/career.html?data=46
ことくらいだ。

 (注2)1868~1949年。東大法卒、同博士、第一銀行、農商務省、内務省勤務を経て、同次官、内相、文相、等を歴任。(上掲)

 興味深かったことの第一点は同会に係る基本的理念だ。
 (どうやら、同会設立の契機は、近衛首相の声明だったようだ。)↓

 「興亜諸団体ノ指導理念統一ニ関スル件
 昭和十六年一月十日 内閣総理大臣 近衛文麿
一、大東亜新秩序建設ヲ目標トセル諸団体ノ指導理念ハ昭和十五年十一月三十日日満華共同宣言<(注3)>ニテ闡明セル趣旨ヲ依ラシムルゴトク指導ス 肇国ノ精神ニ反シ皇国ノ国家主権ヲ晦冥ナラシムル虞レアルガ如キ国家連合理論ノ展開乃至之ニ基ク国際形態ノ確立ヲ促進セントスル運動ハ之ヲ撲滅スル如ク指導ス・・・」
https://tadanorih.hatenablog.com/entry/20061022/1161527909

 (注3)「一 日本國、滿洲國及中華民國ハ相互ニ其ノ主權及領土ヲ尊重ス
      二 日本國、滿洲國及中華民國ハ互惠ヲ基調トスル三國間ノ一般提携就中善隣友好、共同防共、經濟提携ノ實ヲ擧グベク之ガ爲各般ニ亙リ必要ナル一切ノ手段ヲ講ズ」が、その主要な内容だった。
https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%BB%BF%E8%8F%AF%E5%85%B1%E5%90%8C%E5%AE%A3%E8%A8%80

 ここから、理念において、アジア諸国の対等性を謳っている近衛声明を受けて設立されたはずなので、東亜同盟の理念≒大日本興亜会の理念、であったらしいことが分かる。
 すなわち、バーガミニの大日本興亜会批判は言いがかりに過ぎなさそうだということだ。
 興味深かったことの第二点は、大東亜戦争開戦直前に、同会がとんだ「大不祥事」を引き起こしていたことだ。
 その顛末は以下の通り。↓

 「“11月29日に私<(ハル米国務長官)>は、東条首相と東郷外相が、11月30日に大政翼賛会と日本東亜連盟主催の会合で行う予定の爆弾的演説の要旨を受けとった。
 東条演説の一部は次のように述べていた。
 「蒋介石が英、米、および共産主義の笛におどって、空しく抗日をつづけ、中国の前途有為の青年を犠牲に供しているのは、英米が東アジアの民族をかみ合わせて漁夫の利をしめ、東亜の支配権をにぎろうとの野望を持っていることに起因する。・・・人類の名誉と誇りのために、われわれは断固としてかかる行為を東亜から一掃せねばならない。”<(『ハル回顧録』)>・・・
 “東条首相の英米駆逐演説と称するものが11月30日の米国各新聞に大見出しで掲載され、ことにその中でも英米人のアジア民族搾取を「糾弾的に駆逐せねばならぬ」と述べたという点が特に大きく取り扱われたのである。
 けだし一国の大使が<野村吉三郎と来栖三郎>二人まで揃ってしきりに交渉している最中に、総理大臣がその相手国を駆逐しろと叫んだというのだから、米国の各方面に捲き起こした反響は、日本にいた人々の想像に絶するほど強烈で、当時米国各新聞の伝えたところによると、ハル国務長官は、ウォームスプリングに静養中の大統領にただちに電話をもってこれを報告し、大統領は静養を打ち切って同日午後急遽ウォームスプリングを出発し、1日午前中にワシントンに帰るという有様で、われわれが12月1日に国務長官を訪問した時のごときは、新聞記者は申すに及ばず、国務省の職員と覚しき人々までが、廊下通路などに蝟集しヒソヒソ話を交わすという有様で、すべてが大事勃発の寸前という情景になってしまったのである。”<(来栖三郎『泡沫の三十五年』)>・・・
 “大統領は12月1日(月曜日)の朝ワシントンに帰って来た。
 その少し前野村と来栖が国務省に私を訪ねて来て、大統領が予定より早く首都に帰ってくるのはなぜだとたずねた。両大使が、大統領が急にワシントンに帰って来るために、われわれを会談でだましておけという訓令のじゃまになりはしないかと心配していることは明らかだった。私は東条の大演説が一つの理由だといった。”<(『ハル回顧録』)>
 “当時早速この演説の真相を尋ねたわれわれの電信(11月30日野村発東郷宛電報第一二二二号)に対する政府の説明(12月1日東郷発野村宛電報第八六六号)<(注4)>によると、問題の演説というのは、11月30日興亜同盟主催の日華基本条約締結一周年祝賀に対する首相の祝辞として、興亜同盟事務局が起草したものであるが、祝賀会がちょうど日曜日に当ったために、29日夜同盟事務局員が新聞記者に与えてしまったもので、「首相自身30日ニハ何等演説シ居ラズ、又右原稿モ首相初メ政府当局者ノ全然承知シ居ラザリシ次第」云々というので、われわれ出先としては実に唖然たらざるを得なかったのである。”<(来栖前掲)>・・・」
https://ameblo.jp/gallina50/entry-11827159183.html

 (注4)「昭和16年(1941年)12月1日、東郷外務大臣は、野村・来栖両大使に対して、「東条総理大臣演説」の新聞発表経緯について通知しました。・・・
 <この>大至急電・・・によれば、問題となった「東条総理大臣演説」は、興亜同盟主催の日華基本条約締結一周年記念祝賀会における祝辞として、興亜同盟事務局が起草したもので、11月29日夜に東条や政府当局者の検閲を受けずに、同事務局が新聞記者の要求に応じて渡したものがそのまま新聞に掲載されたものでした。また、東条は30日には何等演説はして居らず、演説原稿そのものも、首相自身はおろか、政府当局者は全く関知しないものでもありました。よって、東郷は興亜同盟に対しては必要な措置を講じた、と両大使に伝えています。」
https://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/19411201c.html

 こんな文書が「リーク」された背景を追及したものもネット上には見当たらなかったが、一つだけはっきりしていることは、1943年11月の大東亜会議における大東亜共同宣言
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%85%B1%E5%90%8C%E5%AE%A3%E8%A8%80
、すなわち、アジア解放宣言、は、開戦直前の時点において、既に予定されていたということが分かるものの、この時の米国の大騒動ぶりも考慮されたのかどうかは定かではないけれど、開戦の詔書
http://www.geocities.jp/taizoota/Essay/gyokuon/kaisenn.htm
では、アジア解放めいた言辞は影を潜めてしまった、ということだ。
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(続く)