太田述正コラム#10407(2019.3.2)
<ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む(その3)>(2019.5.20公開)

 柳川は、1932年から1934年の間の副陸軍大臣として、終始、外国出張に出ていた。・・・

⇒これで、この翻訳者が、官界についても、日本の戦前の軍事についても、いや、そもそも、戦前史一般について、全く無知であることが判明した感があります。(副大臣→次官、じゃなきゃ、「絶対に」いけません。)
 でも、折角乗り掛かったこの舟、だましだまし乗り続けることにしましょう。(太田)

 参謀本部次長、多田駿〔はやお〕中将は、南京への攻撃・・・を許可しなかった。彼は、裕仁に勅命を与えるよう助言することを断固として拒否した。・・・そこで、多田中将を説得する仕事は、参謀本部作戦部の新任で優柔不断な長官、下村少将にゆだねられた。・・・

⇒ここも、日本語的には、長官→部長、であるべきでしょう。(太田)

 <彼から>松井のもとの参謀将校たちにあてた、第二の、極秘、至急電報はこうなっていた。
  余は、余の最高幹部の決定いまだ得ずとも、当本部の核心は南京攻撃に傾注しつ
 つあり。しかるに、これを理解し、予断を打ち捨て、前進計られたし。

⇒これは、日本語の問題ですが、しかるに→よって/さすれば、でしょう。(太田)

 ここに言う「当本部の核心」とは、電報を打った下村少将を別にして、天皇裕仁のみであった。
 また、「最高幹部」とは、もちろん、苦闘する多田中将のことである。・・・」
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_10_1.htm

⇒英語原文、更にはその典拠文書の邦文、が分からないので、確たることは言えませんが、常識的には、「最高幹部」は閑院宮参謀総長、「当本部の核心」は下村を始めとする、参謀本部の諸部長レベル、でしょう。
 こんなところで、引っ張り出された昭和天皇は、あの世で苦笑されているに違いありません。
 いずれにせよ、彼らが、直属の上司である多田の意向を無視できたのは、陸軍大臣の杉山元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3
の事実上の指示を受けていたからだ、と、私は見ているわけですが・・。(太田)

  第二章 原子爆弾
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_10_2a.htm

⇒引用したい気にさせる記述はありませんでした。(太田)

  第三章 敗戦

 「・・・東久邇はまた、内閣の特別顧問に、1929年から1931年の間に満州征服の戦略計画を指揮した退役元中将、石原莞爾を選んだ。・・・

⇒何かの間違いでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE (太田)

 裕仁の61歳の毅然たる母親、節子皇太后は、・・・戦争への厳しい批判者であり、真珠湾以来、裕仁とは緊張した関係にあったが、彼女は、愛国的努力を傾けて、高貴な女性たちが和平派を助けるために、出来るだけのことをすると約束していた・・・」
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_10_3a.htm

⇒同じく、というか、真逆のわけです(コラム#省略)が・・。(太田)

 「・・・日本の侵略的政策がどのようにして、誰によって決定されたのか、誰も知らなかった。

⇒そして、極東裁判でも、ついにその解明は果たせなかったわけです。
 (天皇免責があらかじめ決まっていたこともあり、あえて解明することを避けた、とは、私は思いません。)(太田)

 「・・・天皇は、儀式上の超実在とされていた。国会の力は、予算上のものに限られ、内閣は頻繁に変えられていた。F.D.ルーズベルト大統領の時代〔1933-1945〕、日本の首相は11人にもわたって交代した。日本の「怪物」を支配したと考えられる「大本営」の軍国主義的官僚も、一人の人間が二年以上も同一の地位に留まるのが珍しいほどに、頻繁に交代した。しかし、日本の侵略的政策が一貫性をもって展開されるには、幾人かの人あるいはその集団によってまさしく舵取られていたにちがいない。にも拘わらず、日本を訪れたことのある人は誰もが、日本人を、優しく、思いやりがあり、法を守る人々といい、その国内政治は、世界のどの国より、秩序にとみ、効率が良いと考えていたのだった。・・・
 アメリカの見方は、日本社会の何らかの要素が日本国民を間違った方向に導いたがゆえのもので、それは癌細胞のように切除可能なものであった。・・・
 アメリカ国務省のディーン・アチソンやアーチボールド・マックリースに率いられたニューディール派学識者は、体制の総体――帝国上部指導層における、あるいは政府官僚や警察組織における、あるいは兵卒や将校における、あるいは封建的商家や近代的財閥の持主における、そうした世襲的身分階級構造――を転覆させるには、変革と民主化が唯一の道であると信じた。・・・」
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_10_3a_2.htm

⇒上記解明がなされない状況下において、いわば「病気」の正体が何であるかが分からないまま「治癒方針」が議論されて決定され、アチソンらの提案が、占領下の日本で「施療」に移された、というわけです。
 米国は「病気」を相当程度「治療」できたと思い込んだわけですが、バーガミニは、「病気」の正体を自分こそ解明してやろうと決意した、ということですね。
 それにしても、日本人の戦前史家達や政治学者達の誰も、この解明に取り組まず、いや、取り組んだ人がいたのかもしれませんが、解明に成功したと誰も宣言することなく、現在にまで至っていることは、恥ずかしいことではないでしょうか。(太田)

 第二部 天照大神の国

  第四章 天皇家の遺産(A.D.50-1642)
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_13_3_4.htm
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_20_04_1.htm

⇒引用したい気にさせる記述はありませんでした。
 神武天皇を実在の人物として描いていたりのトンデモ日本古代史から始まるのですが・・。
 私の乗り掛かったこの舟、訳本だけじゃなく原本も泥船である可能性が濃厚になってきました。(太田)

(続く)