太田述正コラム#10409(2019.3.3)
<ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む(その4)>(2019.5.21公開)

  第五章 ペリー来航

 「・・・邦家親王<(注5)>の伏見宮家は、それに比べ、何世紀にもわたり、各世代、少なくとも三人の健康な男子をさずかってきていた。

 (注5)1802~72年。「北朝第3代崇光天皇の男系14世子孫・・・1947年(昭和22年)に皇籍離脱した旧皇族11宮家全ての源流であり、今上天皇の高祖父でもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E5%AE%B6%E8%A6%AA%E7%8E%8B

 邦家親王自身は、二人の兄弟と五人の息子を持っていた。だが、彼が63歳になるまで、たくさんの妾から、生きているだけで、12人の息子をもうけている。彼が授けた子のうちから、1930年代に裕仁を取り囲んだ、およそ50人の皇王たちのなす天空が生まれていた。彼の息子、閑院宮<(注6)>は、1931年から1940年まで、陸軍参謀を率いた。彼の孫、伏見宮<(注6)>は、1932年から1941年まで、海軍参謀を率い、久邇宮<(注6)>は裕仁の皇后となる良子(ながこ)の父親で、朝霞宮<(注6)>は1937年、南京を強奪し、東久邇宮<(注6)>は1945年、首相として日本をアメリカに手渡し、そして梨本宮<(注6)>は、マッカーサーによって、1946年に新しい日本国憲法が受け入れられるまでの人質とされた。・・・」

 (注6)閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう。1865~1945年)。「3歳で出家し真言宗醍醐派総本山三宝院門跡を相続するが、1871年・・・伏見宮に復籍のうえ、翌年・・・閑院宮家を継承する。1877年・・・陸軍幼年学校に入学。・・・フランスへ留学。サン・シール陸軍士官学校、ソーミュール騎兵学校、フランスの陸軍大学校を卒業し軽騎兵第7連隊付を経て・・・帰国・・・1931年(昭和6年)に参謀総長に就任。・・・国葬を賜る。親王宣下による親王および邦家親王の32名の子女で最後の生存者であり、また大日本帝国憲法下最後の国葬となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE%E8%BC%89%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 伏見宮博恭王(ふしみのみや ひろやすおう。1875~1946年)。「貞愛親王<の>・・・第一王子・・・として産まれた。<(伏見宮貞愛親王(1858~1923年)は・・・伏見宮邦家親王第14王子。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E6%84%9B%E8%A6%AA%E7%8E%8B )><妻は>徳川経子(徳川慶喜九女)・・・海軍兵学校予科に入学し(16期)、・・・3年後に海軍兵学校を中退してドイツに渡り、ドイツ海軍兵学校からドイツ海軍大学校で学び、1895年・・・まで滞在した。・・・1931年・・・末、参謀総長に皇族の閑院宮載仁親王が就任したのに対し、1932年・・・2月、海軍もバランスをとる必要から、博恭王を海軍軍令最高位である海軍軍令部長に就任させた。1933年・・・10月、・・・<彼の意向で、>海軍軍令部は冠の”海軍”が外れて軍令部となり、海軍軍令部長も軍令部総長となる。これは陸軍の「参謀本部」「参謀総長」と対応させたものであ<る。>・・・更には兵力量の決定権を海軍省から軍令部に移して軍令部の権限を大幅に強化し、海軍省の機能を制度上・人事上弱体化させることに成功して軍令部は海軍省に対して対等以上の立場を得ることとなった。こうして日独伊三国同盟・太平洋戦争と時代が移る中で海軍最高実力者として大きな発言力を持った。太平洋戦争中においても、大臣総長クラスの人事には博恭王の諒解を得ることが不文律であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E5%8D%9A%E6%81%AD%E7%8E%8B
 久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう。1873~1929年)。「久邇宮朝彦親王の第三王子。香淳皇后(昭和天皇后)の父。<(久邇宮朝彦親王は伏見宮邦家親王の第4王子。・・・<維新後>東京移住を命令されるものの、京都で暮らし続ける。・・・明治新政府の中枢には入らなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E6%9C%9D%E5%BD%A6%E8%A6%AA%E7%8E%8B )<妻は>・・・旧薩摩藩最後の藩主だった島津忠義公爵の八女・俔子・・・学習院を経て東京・成城学校(現・成城中学校・高等学校)に入学する。
1891年(明治24年)には朝彦親王薨去を受けて久邇宮を継承する。1896年(明治29年)陸軍士官学校を卒業し陸軍士官として勤務し、1902年(明治35年)陸軍大学校卒業。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E9%82%A6%E5%BD%A6%E7%8E%8B
 朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう。1887~1981年)。「久邇宮朝彦親王の第8王子。・・・学習院、東京陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て・・・に陸軍士官学校(20期・・・)を卒業。・・・陸軍大学校(26期)を卒業・・・1937年・・・12月・・・上海派遣軍司令官を拝命し、直後の南京攻略戦に参加・・・太平洋戦争終盤においては、主戦論者として本土決戦に備えた陸海軍統合(統帥一元化)を主張・力説していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%A6%99%E5%AE%AE%E9%B3%A9%E5%BD%A6%E7%8E%8B
 東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう。1887~1990年)。「久邇宮朝彦親王第<9>王子・・・陸軍士官学校(20期)、・・・陸軍大学校(26期)を卒業。・・・フランスに留学した。サン・シール陸軍士官学校で学び、卒業後はエコール・ポリテクニークで、政治、外交をはじめ幅広く修学した。・・・対中戦争の開戦及びその長期化、対米戦争突入には極めて批判的であった。・・・<終戦直後>内閣総理大臣」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E7%A8%94%E5%BD%A6%E7%8E%8B
 梨本宮守正王(なしもとのみや もりまさおう。1874~1951年)。「久邇宮朝彦親王の第4王子・・・<妻は>鍋島伊都子・・・陸軍士官学校卒業・・・フランス陸軍大学を卒業。・・・敗戦後、<戦時中、伊勢>神宮祭主であったことから国家神道の主体的な頭目であったとみなされ、皇族としてただ1人A級戦犯容疑者に指定されて、巣鴨プリズンに拘置された。・・・大韓帝国最後の皇太子である李王垠の岳父」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%A8%E6%9C%AC%E5%AE%AE%E5%AE%88%E6%AD%A3%E7%8E%8B

⇒バーガミニのおかげで、戦前に活躍した著名な宮様達の濃密な血縁関係に目を啓かされました。
 なお、帝国海軍の末期における急速な劣化には軍令部総長時代の伏見宮博恭王が大いに与っている、と言ってよさそうですね。
 それに比べて、概ね、席に座っているだけに徹したところの、帝国陸軍の方の参謀総長の閑院宮載仁親王は「ご立派」でした。(太田)

 「・・・孝明天皇は、その日の深夜すぎ、京都の寒々とした宮廷の裏にある私邸でくつろいでいた所に、アメリカ人の来航を知らせる伝書鳩報を受け取っていた。・・・」
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_20_05_2.htm
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_20_05_3.htm

⇒「伝書鳩<は、>・・・江戸時代に輸入された記録があり、京阪神地方で商業用の連絡に使われた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9D%E6%9B%B8%E9%B3%A9
とはいえ、朝廷が使っていたなどというバーガミニの妄想のネタ元は何なのでしょうね。 なお、バーガミニが(殆ど誤りですが)幕末の動きを孝明天皇を軸に描いている・・それに久邇宮朝彦親王と岩倉具視がからむ・・魂胆は明らかでしょう。
 当然と言うべきか、ここには島津久光こそ出没すれど、島津斉彬が登場することはありません。(太田)

(続く)