太田述正コラム#10411(2019.3.4)
<ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む(その5)>(2019.5.22公開)

 第三部 若い皇帝

⇒当然、若い天皇、と訳さなければなりません。(太田)

  第六章 裕仁の少年時代(1900-1912)

 「1758年の後桃園天皇の誕生以来、すべての天皇は、正妻の子息ではなく、側室の生んだ男子が継いできていた。明治天皇は、礼節に関する西洋の基準を満たすために新たな皇室典範を公布し、正妻のみが皇位を継ぐ子を生みうるものと規定した。明治天皇と最も内情に通じた二人の式武官<(ママ)>は、その新しい法規を解釈するにあたって、それは、正統な後継者を生んだ者のみが皇后になる意味だとした。庭を散歩している節子<(注7)>の将来は、従って、いま産もうとしている子の性別にかかっていた。

 (注7)九条節子(くじょう さだこ。1884~1951年)。「1900年(明治33年)2月11日、15歳で、5歳年上の皇太子嘉仁親王と婚約。同年5月10日、宮中の賢所に於いて、神前で挙式。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E6%98%8E%E7%9A%87%E5%90%8E
 「昭和天皇<の生誕は、>1901年〈明治34年〉4月29日」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87

 彼女は、将来、大正天皇となる嘉仁〔よしひと〕皇太子と婚約していた。そしてもし彼女が彼に男の子をさずければ、彼女は彼と結婚しえた。だがもしそれが女の子だったら、明治天皇は彼女に第二のチャンスを与えるかもしれなかったが、それは、親王の他の側室の誰も、初の男の子を生まなかった場合のみに限られていた<のだが、男の子が生まれたのだ>。・・・
 宮廷の噂話にもとづく上記の見方〔1900年誕生〕は、1920年代以降、数人の見識ある著者によって暗黙に受け入れられている。後年、裕仁と英国エドワード皇太子の間の会話を通訳したF.S.G ピゴットは、裕仁が1921年に英国を訪問した際、裕仁を 「22歳の」 と言っている。また、裕仁の私的広報担当者、二荒芳?〔ふたらよしのり〕伯爵は、1928年に、裕仁は 「1900年4月29日の夜」 に生まれたと明白に書いている。この二荒伯爵の見解の出版社は、皇室についてのあらゆる誤植を列記した別の記録を出版しているが、この二荒伯爵の記述はそれに含まれていないにも拘わらず、それが警察によって謝罪を命じられたことはない。さらに、1901年4月29日の前後2週間の日本の新聞は、1945年、日本中の図書館から撤去され、以来、閲覧不可能となっている。

⇒典拠らしいものが記されてこそいますが、非論理的なオリエンタリズム的主張ですね。(太田)

 裕仁の新たな家族の役を負った宮廷侍従は木戸孝正<(注8)(コラム#10369)>〔たかまさ〕で、彼は、1862年に孝明天皇に仕えて死んだ武士〔来原良蔵〕の息子だった。

 (注8)「木戸孝允の養嗣子であった弟木戸正二郎の死去に伴い、木戸家を継承し1884年11月18日、侯爵を襲爵。・・・山口師範学校教諭兼同山口中学校教諭、駅逓局属、農商務省御用掛、主猟官、式部官、東宮侍従長、宮中顧問官などを務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E6%AD%A3

⇒木戸孝正、旧制中学校校長程度で終わったかもしれない人生が、棚ぼた的な侯爵襲爵で一挙に中央に、更に宮中へと引き上げられたことよ、といったところですね。
 それにしても、大正天皇は1912年に即位するまでは皇太子(東宮)であったわけで、東宮侍従長たる木戸は、(後の大正天皇)一家全体の世話の統括役を、新築された赤坂離宮(現在の迎賓館)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E6%98%8E%E7%9A%87%E5%90%8E 前掲
で果たしていたのであって、後の昭和天皇の世話に専念していたわけではない以上、「家族の役」はないでしょう。(太田)

 孝正は明治天皇のもっとも人望のある寡頭政治家〔木戸孝允〕の養子となり、アメリカに留学した。そこで10年間生活し、鉱山技術を学び、またペリー提督の国に対する彼の自然な偏見を育てた。帰国後数年して、木戸孝正は、言われるところの、ある親王の息子を養子に迎えた。これが木戸幸一で、彼は裕仁の最も信頼される相談役となり、1945年には、巣鴨刑務所に収容された戦争犯罪人の中で、裕仁の代理人となる。

⇒木戸幸一の出自は完全な出鱈目であり、もちろん、直接的典拠は付されていません。
 原本は、日本、米国等を問わず、日本史家の監修を受けていないとしか思えません。
 また、ここでも、極東裁判における「裕仁の代理人」木戸幸一、はないでしょう。
 一応歴史本なのですから、こういった部分に限りませんが、文学的修辞が過ぎている、というものです。(太田)

 裕仁が年長の木戸の庇護のもとに入った時、木戸幸一は15歳だった。そのしかめ面の若者はその堂々とした少年の兄貴としての役を演じ、後に裕仁の秘密結社の核となる何人かの十代後半の大兄たちを紹介した。こうした駆けだしの貴族たちはみな、1887年から1891年の間の生まれで、学習院で学んでいた。・・・

(続く)