太田述正コラム#8132005.8.4

<男女平等を考える(その4)>

 (これは上田さんのコラムの完結編であり、最後に私のコメントをつけてあります。上梓は、7月29日です。夏休みをとるので、コラム上梓頻度を増しています。)

5 かくあるべきではなく各人の意志を尊重できるかどうか

女性が興味をもてない出世競争や派閥争い、権力闘争が今の日本の意志決定機関にはまだまだが横行しているどころか、もうそれ自体がお仕事だったりしています。その渦中に喜んで入りたいと思う女性が少ないのは当然といえば当然!チャンスがあってもばかばかしくて受ける気にもならないでしょう。女性陣からすれば安定したある程度の収入があれば大きな犠牲を払ってまで形だけの役職とか名誉などもらいたくもないし欲しくないといったところではないでしょうか?

今のままでは多くの女性が昇進試験を喜んで受けようとは思わないでしょう。くだらない権力闘争、バカみたいな残業、ゴマスリ、規則を無視した不文律、腹のさぐりあいがなくなり、合理的な運営が行われ淡々と結果を出すための意志決定機関たれば、自然と女性(あるいは良識ある男性も)はその場に入って行くはずです。数値目標と同時に、運営・運用方針を変えなければ女性役職者は増えないと考えます。

これが男女の仕事への意識の差異(くどいようですが優劣ではない!)に関する上田の見解です。

男女、あるいは個人のお互いの特性と求めるものを客観的に理解していつも機会は平等にして、チャンスのドアを開けておく、あとは神の見えざる手に委ねて言いたいヤツには言わしておくしかないと考えます。

金子みすずではないですが「みんな違ってみんないい」。

女も男も「男」的な生き方も「女」的な生き方も性別にとらわれずにどちらも自由に選べるという前提が確約されているのであれば(先進国では建前はそうなっていますが…)すべての男女が個の婚姻に限定された関係を超えて生きとし生ける者同士対等なパートナーとして社会のリスクを分散、分担できるはずです。最近は第三号被保険者の男性も増えておりますし…。これが健全な男女が平等な社会ではないかと考えます。どっちも必要でどっちも違っていてどっちもいい、どっちを選んでもいい。同じ人間でも長い人生いろいろなコースをそのときそのときに選択しても良い。ですからある一定の組織やらコミュニティーでその都度男女のバランスが偏ることがあるでしょう。その当事者達の「意志」による結果であれば目くじらを立てたり、優劣を図る必要もないと思います。ただし恣意的に偏りを作り出すことに関しては徹底的に社会的制裁を加えることは言うまでもありません。

6 女性が流動的に生きられることが絶対条件

男女平等と少子化問題は表裏一体ですね。先進国では少子化が進み各国さまざまな取組みを実施しています。フランスの例が私は参考になると考えます。保護者の貧富に関わりなく生まれた子どもへ直接補助(家族手当)を行い、同棲による婚外子が一般化など非婚・未婚に社会的な理解を持つことで出生率を上げることに成功しました。婚姻関係にとらわれずに子どもが産み育てられれば女性は産むということの証ですね。これは日本に置いても同じことだと思います。生活が安定しない風采のあがらないDV男の本妻より、婚姻関係がなくとも生活を保障してくれる、優れた教養あるパートナーの方が断然いいというわけです。女性にとって迷惑な人間は家族に不要なのです。不要な人間を押しつけようとするから結婚したくない女性が増えるのではないでしょうか? 

同時に女性が自力で生活を保障でき子育てできる環境が整っていれば非婚・未婚でも一向に構わず出産することができます。少子化大国である日本が30万超もの生まれてこない子どもがいる中絶大国でもある(http://wom-jp.org/j/REPORT/repro.html#table2)事実を鑑みますと、無理くり新しくカップルを「結婚」させて子どもを産んでもらう対策を講じるより、まずこの子ども達を育てられるようにすることの方が先決なのではないかと私は常々思っております。実際に、十代女性において4割ができれば産みたいと希望しています。(?http://www.med.or.jp/cme/jjma/131.html?平成15年度家族計画・母体保護法指導者講習会2004515日 第131巻・第10号より)

結婚制度を残すも良し、ただし、好きなような婚姻スタイルを選びそれを責めない世の中の良識があわせて必要です。制度や偏見にしばられることなく女性が常に流動的に生きられることが男女平等を実質的に機能させると考えます。そうした中では「卓抜したオスに一局集中」という現象もおこるかもしれません。一般的には責められることのようですが、従来の婚姻関係同様、それ以上にパートナー(ズ)を幸せにすることができるのであれば私は問題がないと考えます。

戦前は今よりも実際的・流動的だったのかもしれません。私の祖母も尊敬するパートナーと結ばれ非婚で子どもを産みましたが曾孫にまで教育問題を気にかけ小遣いをあげられる程度に心身豊かに暮らしています。もしも親の薦める相手と結婚していたら、経済的精神的豊かさからみても今の生活はなかったであろう、なにより尊敬できる男性と生涯を共にできたことが誇りであると祖母が折りにつけ語るのが心に残っています。もちろん前時代的な男女の力関係に戻れというものではありません。21世紀の今日ですから、さらに一歩踏み込んで男女個々が精神的経済的に自立しお互い奪うことも失うこともない与えあえる健全な関係であることが大前提。その上で婚姻関係が流動的であること、そして一極集中すらも責められなければ…

男女ともに切磋琢磨し自分を磨き魅力的になる→お互いを尊重し合う→結果的に男女が平等→子どもも生まれるし何より民度があがるはず!

難しく考えると難しいけれど幸せの青い鳥同様案外答えは単純なところにあったりします。

…え?上田の夫に新しいパートナーが出現したらかくあるべしと目を細めて許すかって?!とんでもございません!!それはそれ、これはこれ、でございます。髪振り乱して大騒ぎし徹

底的にトッチメ、ただじゃぁおきまっせん! あしからず…

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<太田のコメント>

 上田さん。力作を寄せていただき、ありがとうございました。

 上田さんの描いておられる男女共生社会の未来像は、私の描くそれ(コラム#807)と基本的に同じです。

 違いはそこに至るプロセスにおいて、個人的・社会的淘汰にまかせる(注1)のか、強制的手段も用いるべきか、にあります。

 (1)個人的淘汰のすすめ:「腐った組織で数値目標枠を待つより、自分の意志を堅持して違う組織へ!」(コラム#811)。社会的淘汰のすすめ:「恣意的に偏りを作り出すことに関しては徹底的に社会的制裁を加えることは言うまでもありません。」(コラム#813

 強制的手段としては、今まで触れてきませんでしたが、女性差別を禁止する法整備を進めることも当然必要です(注2)。

 (注2育児・介護については、男女を問わず、育児・介護休業法で解雇を含め不利益取り扱い全般を禁止対象としているのに対し、妊娠・出産した女性に対する差別に関し、現行の男女雇用機会均等法では解雇しか禁止していない、という法の欠缺が放置されている。

また、募集や採用の際に「身長・体重・体力」「学歴・学部」などを要件にして、女性が不利になる制度、基準などがあるとか、福利厚生の適用や家族手当などの支給に当たって、合理的な理由なしに住民票上の世帯主を要件としている場合があるといった「間接差別」も放置されている。(なお、コース別人事制度を設け、総合職の募集・採用に関して、全国転勤を要件としたり、昇進に当たって転勤経験を要件としたり、パート労働に関し、事実上女性しか応募しない条件を設定したりすることが、間接差別に当たるかどうか、という議論が延々と行われている。)

(以上、http://www.sankei.co.jp/news/040622/sei111.htm2004年6月23日アクセス)による。間接差別については、http://www.asahi.com/life/update/0727/007.html(7月28日アクセス)も参照した。)

 しかし、談合が明確に禁止されているにもかかわらず、あらゆるところで官製談合を含めた談合が確信犯的に行われている(コラム#776809)ように、仮に女性差別禁止法令が完璧に整備されたとしても、それだけでは女性差別はなくならないでしょう(注3)。

 (注3)談合に関しては、刑罰を重くする独禁法改正が財界の反対で棚ざらしになっている(http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20041129ig91.htm20041130日アクセス)のは論外だが、極端な話、談合をやれば死刑、ということになれば、誰も談合はやらないだろう。女性差別についても同様だが、余り行政上司法上の刑罰を重くするのは、警察国家・検察国家の弊をもたらすので望ましくない。

 だからこそ私は、官製談合に関し、天下りの停止を訴えているのと同様、女性差別に関し、アファーマティブアクションの導入を訴えたりしているのです。天下りの停止にせよ、アファーマティブアクションにせよ、憲法違反の疑い(前者は職業選択の自由に抵触し、後者は逆差別とはいえども、差別そのもの)がある劇薬ですが、意識改革がなるまでの間緊急避難的に実施するのであれば、憲法違反にはあたらない、と考えているのです。

 いずれにせよ、皆さんによくよくお考えいただきたいのは、談合という法令違反、女性差別という憲法違反(部分的には法令違反)が横行している現在の日本を、このまま放置しておいて良いのか、という点です。

 憲法違反の自衛隊が存在するような国じゃないか、という自嘲が聞こえてきそうですが、こじつけではあっても、第9条に関し政府憲法解釈というオープンにされた規範があり、この憲法解釈の下で諸法令に基づき自衛隊が存在しているのですから、文字通りの無法がまかり通っている談合・女性差別の方がずっと深刻な問題であるとも言えるでしょう。

 無法状態を積極的に正していこうとする気概すらない、というのであれば、必ずや無法状態の毒は日本社会全体を蝕んでいくことになるでしょう。

 少なくとも、そんな日本をアングロサクソンは、今後ともまともな対話相手であるとは決して認めないでしょう。(コラム#812で紹介したアングロサクソンの法意識を思い出してください。)

最後に、上田さんのおっしゃる、「くだらない権力闘争、バカみたいな残業、ゴマスリ、規則を無視した不文律、腹のさぐりあいがなくなり、合理的な運営が行われ淡々と結果を出すための意志決定機関たれば、自然と女性(あるいは良識ある男性も)はその場に入って行くはずです。数値目標と同時に、運営・運用方針を変えなければ女性役職者は増えないと考えます。」(コラム#813)について一言。

 上田さんは、日本の中央官庁や大企業に蔓延する「くだらない権力闘争、バカみたいな残業、ゴマスリ、規則を無視した不文律、腹のさぐりあい」という「運営・運用方針」を、(女性差別禁止法令の整備はさておき、)覚醒した女性を中心とする個人的・社会的淘汰だけによって本当に変えることができる、と思っておられるのですか。

 敵は官製談合と官と癒着した助長・規制行政で丸々と太っているのですぞ。

 むろん、最終的には生きの良い中小企業や外国企業との競争に敗れてこれら大企業はすべてつぶれ、そうなれば否応なしに中央官庁も変わることになるでしょうが、それまで私はもちろん、失礼ながら上田さんも生きていないでしょうね。

(完)