太田述正コラム#10425(2019.3.11)
<ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む(その12)>(2019.5.29公開)

〇ゾルゲ事件

 ここで、私の想像が更に膨らんできた。
 「満州国の憲兵隊からソ連が押収してロシア国内で保管されていた内務省警保局の「特高捜査員褒賞上申書」には、ゾルゲ事件の捜査開始は「1940年6月27日」であったと記されて」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%AB%E3%82%B2%E4%BA%8B%E4%BB%B6
おり、しかも、特高と憲兵隊との間に密接な情報交換がなされていたことも窺えるが、実際、「憲兵隊にも特高課が設けられ、思想警察としても活動<しており、>・・・一般警察分野に介入し、・・・民間人の思想運動をも対象とするようにな<ってい>た。」
https://oplern.hatenablog.com/entry/2018/08/25/170331
ところ、同事件の捜査開始前後に在日独大使館からゾルゲについての「身元保証」が得られたというのに、特高は、「ゾルゲの尾行や調査を続け」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%BE%E3%83%AB%E3%82%B2 ☆
たくらいゾルゲの容疑は濃厚だったにもかかわらず、そんなゾルゲらを泳がし続けたのは、杉山元の指示に基づくものであったのではないか、という想像だ。

 (ゾルゲの経歴は次のようなものだ。
 「ドイツ人鉱山技師のヴィルヘルムとロシア人ニナとの間に・・・ロシア帝国バクー県のサブンチで生まれる。
 父方の大叔父フリードリヒ・アドルフ・ゾルゲ(Friedrich Adolf Sorge)はカール・マルクスの秘書であり、ハーグ大会後の第一インターナショナル・ニューヨーク本部の書記長であった。3歳の時に家族とともにベルリンに移住・・・ベルリン大学・キール大学を経てハンブルク大学で学び、ここで1919年に最優秀の評価を得て政治学の博士号を取得した。その後は教員、炭坑作業員、新聞への寄稿で生計を立てた。1919年にドイツ共産党が結成されるとハンブルク支部に加入し・・・1924年4月にフランクフルト・・・で開催された第9回ドイツ共産党大会に参加し<ている>。
 同年、ソビエト連邦共産党に加入するためにモスクワへ派遣され、軍事諜報部門である労農赤軍参謀本部第4局に配属された。この所属変更は後に日本において特別高等警察(特高)の管轄か、陸軍憲兵隊の所管かに関わることとなる。・・・

⇒これは、あくまでも、日本帝国領域内での管轄「問題」であることに注意。(太田)

 1930年にドイツの有力新聞『フランクフルター・ツァイトゥング』の記者という隠れ蓑を与えられ、・・・上海にソ連の諜報網を強化と指導を目的として派遣される。・・・
 上海共同租界の工部局<英>警察は1932年1月頃から、ゾルゲをソ連のスパイではないかと疑い始め、その後捜査を進めた結果、1933年5月にゾルゲをソ連のスパイとほぼ断定した。・・・
 1933年9月6日に、日本やドイツの動きを探るために『フランクフルター・ツァイトゥング』の東京特派員かつナチス党員というカバーで日本に赴き、横浜に居を構える。」(☆)
 ゾルゲは、その経歴の一部を知っただけで要注意人物であることは明白であり、そんな彼を信じて疑わなかったところの、ナチスドイツの保安システムのお粗末さは衝撃的だ。
 当然、帝国陸軍だって、英警察と同時期前後には、ゾルゲをマークし始めていた、と考えない方がおかしい。)

 すなわち、特高によるゾルゲ事件の捜査開始時点で、憲兵隊、すなわち東條陸軍大臣(1940年7月22日から陸軍大臣、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3 )
そして、陸軍大臣経由で、東條の事実上のボスであったところの、杉山参謀総長(1940年10月3日から杉山元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC) )
にもその情報は伝わっていて、参謀総長(杉山)の指示で泳がしていた可能性があるのではないか、ということだ。
 その目的だが、ソ連に、日本としては、対ソ戦を仕掛ける意志がないことを伝え続けることでもって、ノモンハン事件での敗戦後、戦々恐々としていたスターリンに、日本のアジア解放戦の邪魔、すなわち、ソ満国境でのソ連軍による挑発行動を絶対させないようにしたかったからだ、と見たらどうだろうか。
 (その大前提として、仮に対ソ完全奇襲に成功したとて、中期的には独必敗との杉山らの読み切りがあったと私は見ている(コラム#省略)わけだが、)ゾルゲが、在日独大使館から得たところの、1941年6月の独の対ソ開戦情報をスターリンに伝えるのをあえて座視した(☆)のも、また恐らくは、ゾルゲが、日本政府が「7月2日の御前会議<で>『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』を採択し、独ソ戦が有利に進展したら武力を行使して北方問題を解決するとの方針を決定した」こと・・これを受け、1941年7月16日から7月31日の間、関東軍特種演習が行われた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E8%BB%8D%E7%89%B9%E7%A8%AE%E6%BC%94%E7%BF%92 
・・を同様伝えるのをあえて座視した・・極東ソ連軍の転用を妨げることでヒットラーに対する借りを返した?・・のも、全ては、最初から杉山元が予定していた通りに、日本政府が「1941年9月6日の御前会議で<決定することになったところの、英蘭米>が支配する南方へ向かう「帝国国策遂行要領」」、を、ゾルゲに同様に伝えさせた上で(☆)、この情報の信頼性をスターリンに確信させるためだった、と見るわけだ。
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(続く)