太田述正コラム#10427(2019.3.12)
<ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む(その13)>(2019.5.30公開)

 近衛文麿が原敬暗殺を前もって知っていたという話が出てきたり、バーデン・バーデンの密約をプレイアップした記述が出てきたりしますが、引用するほどの価値はありません。↓
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_30_07_7.htm

  第八章 摂政裕仁(1921~1926)

 「皇居の東端に、古い築城の跡で堀と石垣が孤立して突出したところがあり、そこに、老朽した平屋建ての皇居測候所があった。・・・1921年の12月・・・裕仁はその古い測候所を、守衛で防護された、日本への彼の夢を実現させる行動隊の養成所へと改造した。・・・その養成所は最初、社会問題調査研究所と呼ばれ、後には、いっそう意味あいまいな、「大学寮」という名が与えられた・・・裕仁は旧測候所の大学寮の組織を、彼の主席顧問である牧野伯爵に任せた。彼は背が高く、鋭敏、魅力的な人物で、裕仁のヨーロッパ旅行一行を率いた。牧野は、大学寮の学長職を、大川<周明(注8)>博士――ヨーロッパ旅行前の騒動で西園寺の義理息子を攻撃する理由を与えた知的つわもの――に委ねた。」

 (注8)「大川周明<は、>・・・日本社会教育研究所、およびこれを改組した大学寮で日本精神の研究、指導者の養成に努め、軍部幕僚将校との結び付きを深めていった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E5%91%A8%E6%98%8E-17853
 「大正10年<(1921年)>3月、丸の内の中央気象台跡に社会教育研究所(小尾晴敏主宰)ができ、全国から青年教育のための教師20名を集め、全寮制で2年間、精神教育を行うというものである。ここで大川周明の『日本精神研究』、安岡正篤の『東洋思想研究』が好評であった。日本精神ということが声高く叫ばれだしたのは、この頃からである。
 レーニン政府容認派の・・・大川周明<は、>・・・レーニン嫌いの・・・北一輝・・の書いた「国家改造案原理大綱」をもって会の綱領とする・・・猶存社<に属していた>。」
https://books.google.co.jp/books?id=XNxTDwAAQBAJ&pg=PT221&lpg=PT221&dq=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E6%95%99%E8%82%B2%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80;%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E5%91%A8%E6%98%8E&source=bl&ots=U0cX7abtMI&sig=ACfU3U2W7yrP4xIkrwf8QwaArzqRpoEJTg&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjvoMz15d3gAhUEx7wKHXJWCxMQ6AEwBnoECAIQAQ#v=onepage&q=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E6%95%99%E8%82%B2%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80%3B%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E5%91%A8%E6%98%8E&f=false
 大正12年(1923年)、猶存社を脱会した「大川は・・・『社会教育研究所』に居を移し、牧野<伸顕>内府・宮内次官関屋貞三郎・荒木貞夫・秦真次・渡辺錠太郎らを講師として、日本主義の鼓吹につとめた。間もなくそれは『大学寮』と改名された。騎兵少尉西田税は肺を病んで十四年六月予備役となってこの大学寮に入り、西田を通じて陸士の士官候補生や青年将校が大学寮に出入し、また海軍側も藤井斎(海軍少佐、上海事変で戦死した)をはじめ古賀清志(五・一五関係者)らが出入したのである。当時は軍縮熱・軍部蔑視の空気が日本をおおい、こうした社会不安の解決を求めて陸海の青年将校がアンチ・デモクラシーを叫ぶここ大学寮に集まったのである。大学寮は宮内省より建物の取払いを要求され[1925年中に]廃止された」
https://blog.goo.ne.jp/t80064012301/e/1a755035b40a30f1049905c0b8747830
 「1925年3月の社会教育研究所第3回卒業式には荒木貞夫少将が祝辞をのべ<たが>、・・・来賓として・・・宮内大臣牧野伸顕が出席しており、社会教育研究所、大学寮が宮内省の支持を得ていたことを示している。」
http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/36_nippon_fasizum_ron/2.html
http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/36_nippon_fasizum_ron/chusyaku.html ([]内も)

⇒「社会問題調査研究所」は「日本社会教育研究所」の誤記か誤訳なのでしょうが、「注8」に出て来る、「皇居測候所」ならぬ「東京気象台」が、形の上では皇居内であったところの旧江戸城本丸の北端に明治15年(1882年)に設置されていた
https://news.yahoo.co.jp/byline/nyomurayo/20170522-00071176/
ところ、その跡地に社会教育研究所を設けるかどうかに、当時摂政宮になったばかりの昭和天皇の意向が働いていたとは到底思えないけれど、「注8」から、牧野伸顕宮内大臣の関与の可能性は高そうです。
 私は、ここにも、ミッシングリンクとして、杉山元の影を感じます。
 まず、杉山と大川の縁ですが、杉山は、「1915年(大正4年)にインド駐在武官任命。この時の縁で、インド独立運動家のラス・ビハリ・ボース、スバス・チャンドラ・ボースの日本招致や太平洋戦争中の対印工作に関与し<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
人物であり、この関係で、杉山が、「東京帝国大学文科大学(印度哲学専攻)・・・卒業後、インドの独立運動を支援。ラース・ビハーリー・ボースやヘーラムバ・グプタを一時期自宅に匿うなど、インド独立運動に関わり、『印度に於ける國民的運動の現状及び其の由来』(1916年)を執筆。日本が日英同盟を重視して、<英国>側に立つことを批判し、インドの現状を日本人に伝えるべく尽力した」大川周明
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E5%91%A8%E6%98%8E
と兄弟の契りを交わしていたとしても私は驚きません。
 他方、(島津斉彬コンセンサス信奉者であったことに間違いない)牧野は、杉山から、大川の講師起用も含みに、(陸海軍内で行う訳に行かない)アジア主義/島津斉彬コンセンサスを陸海軍の若手将校・・そのOBを含む?・・らに注入する機関設置への便宜供与を依頼されてそれを受けた可能性がある、と、私は思うのです。
 なお、社会教育研究所/大学寮が3回生を出した後に廃止された・・移転を求められても廃止する必要は必ずしもないと思われるのに廃止された・・のは、杉山構想遂行の陸海軍、とりわけ陸軍、内の若手将校達・・鉄砲玉候補生達を含む!・・を最低限確保できた一方で、かかる教育機関の存在が余り広く知られてはマズイ、と判断されたからである、と想像されます。(太田)

 大学寮でのセミナーにおいては、一般幕僚や陸海軍大学の各学部の最も優秀な初年生が参加し、・・・授業が終わると、彼らはよく茶屋にでかけて互いに飲み、女と遊んだ。・・・日本の二次大戦中の参謀<総>長、杉山大佐<は、>ナプキン大のタオルの七枚のベールを付けた滑稽な踊りの名人であった・・・。・・・」
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_30_08_1.htm

⇒このくだりもガセの可能性は否定できませんが、いかにも杉山らしい光景(?!)でもあり、事実だとして、杉山もまた、(少なくとも軍事課長時代(1923年8月~25年5月)
https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/sugiyamahajime.php
に社会教育研究所/大学寮の講師を務めたことがあることになるところ、私の上記見解が正しければ、当然、講師を務めなければならなかったわけです。(太田)

(続く)