太田述正コラム#10429(2019.3.13)
<ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む(その14)>(2019.5.31公開)

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[牧野伸顕について]

 牧野伸顕(1861~1949年)は、大久保利通の子であることに加え、旧薩摩藩士〈で精忠組の一員だったところ〉の三島通庸の娘と結婚し、1888~91年、旧薩摩藩士の《薩長同盟締結に西郷の右腕として動いた》黒田清隆の首相当時の秘書官を務め、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E4%BC%B8%E9%A1%95 ※
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E9%80%9A%E5%BA%B8 (〈〉内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E6%B8%85%E9%9A%86 (《》)
かつまた、大東亜戦争中に『島津斉彬言行録』の復刻をした(コラム#省略)、と来れば、彼が島津斉彬コンセンサス信奉者であることは間違いないわけだが、そのことを韜晦し続けたこともまた事実だ。↓

 「牧野は、伊藤やその後継者である西園寺公望に近く、初期の政友会と関係の深い官僚政治家となり、対外協調的な外交姿勢と英米型自由主義による政治姿勢を基調とし、一方では薩摩閥により広く政界、外交界、宮中筋と通じるという、独自の地位を築きあげた。・・・

⇒島津コンセンサス信奉者、しかもその重鎮であるにもかかわらず、彼は、自ら、最高位のスパイとして、勝海舟通奏低音信奉者達の動向を探り、杉山、と、杉山構想完遂協力者達にその情報を流す役割を果たそうとした、というのが私の新たな見立てだ。(太田)

 1919年(大正8年)、牧野は第一次世界大戦後のパリ講和会議に次席全権大使として参加した。一行の首席は西園寺であったが実質的には牧野が采配を振っており、随行員には近衛文麿や女婿の吉田茂などがいた。・・・

⇒そもそも、生理的に合わないはずの、骨の髄まで勝海舟通奏低音信奉者たる吉田に自分の娘を嫁がせしめることでもって、勝海舟通奏低音信奉者たる西園寺の信任を盤石なものとし、その吉田と、島津斉彬コンセンサス信奉者の近衛をパリに同道したわけだ。
 婿の吉田は、「<戦後の>首相<当時、牧野に>度々相談に訪れていた」(※)というのだから、ついに、自分の舅の正体に気付かないままだった、と思われる。(太田)

 〔旧薩摩藩士で志士歴こそないが、「日露戦争の開戦に当たっては、消極派の伊藤博文・井上馨らに反論し、積極的に開戦を主張、蔵相に自信がないとしても自分が補佐するから財政上の懸念は解決できると豪語し、元老会議を主導した」〕元老の松方正義が・・・1921年(大正10年)・・・穏健な英米協調派で自由主義的傾向が強い牧野を宮内大臣に推したのは、天皇及び宮中周辺に狂信的な皇室崇拝者を置くことで皇室が政治的な騒乱に巻きこまれることを嫌った西園寺の意向であるという。

⇒もともと西郷のポチたる薩摩藩士だった山本権兵衛
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E6%A8%A9%E5%85%B5%E8%A1%9B
らから、山本の首相時代に外相をしていた牧野が、1914年(大正3年)に宮内大臣就任の打診を受けて固辞していた(※)、という過去の経緯もあり、牧野から松方に手を回した可能性が高いが、松方から打診があれば、西園寺として拒否する理由もなく、牧野は、すんなり、昭和天皇の最側近の地位に就くことに成功した、ということだろう。
 この頃までには、杉山元は牧野と誼を通じていたと思われるが、さすがにまだ、杉山が本件で動いた、と考えにくい。(太田)

 これ以降、牧野は西園寺の意を体して、宮中における自由主義を陰に陽に守り抜くことをその政治的使命とする。

⇒そのように装っただけのことだろう。(太田)

 宮相就任後、牧野は元老と内大臣との間の情報仲介役として、後継首班奏請に関与するようになる。 だが宮相になった翌年に山県が亡くなり、元老は松方と西園寺のみとなり、両者とも病臥することが多くなった。
 1925年(大正14年)、牧野は内大臣に転じ1935年(昭和10年)まで在任した。

⇒牧野の1935年の辞任は、体調不良もあった(※)が、その前年に杉山が参謀次長・・当時は実質的な参謀総長・・に就任しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83 前掲
自分の「仕事」も一区切りがついた、という認識だったのではないか。(太田)

 牧野は常侍輔弼という大任に加え、後継首相の選定にもあずかることになった。・・・
 木戸幸一<は、>・・・内大臣時代[1930年(昭和5年)から近衛の推しで]秘書官長として<牧野に>仕えた・・・

⇒少し以前に(コラム#10377、10379で)記したように、木戸を送り込んだのは杉山元だと私は見てきたわけだが、むしろ、(自分の「後任」を探していた)牧野と杉山の共同謀議の下で木戸は送り込まれた、と見るべきなのだろう。(太田)

 牧野には「保守」と「進歩」のアンビバレントな両面性があり、有馬頼寧の同和問題への取り組みを評価したり、大川周明や安岡正篤を尊王家として評価したりしている。・・・

⇒牧野のウィキペディア執筆者の気持ちは是とするが、それなら、有馬も杉山系の人間(コラム#10377)なので、有馬ではなく、勝海舟通奏低音信奉者たる近代主義者の誰かを挙げるべきだった。(太田)

 ロンドンにおける軍縮会議に出席していた若槻礼次郎ら全権団<が>妥協案受け入れの是非を請訓してきた時、政府案を天皇に上奏する前に軍部は帷幄上奏をしようとしたが、鈴木侍従長が延期させた。牧野はこれに関係していなかったが、・・・牧野が条約反対派を抑え込んだと思われ、・・・昭和維新を思い立った陸軍青年将校は西園寺、斎藤内大臣、鈴木侍従長のほかに牧野を「君側の奸臣」とした。」
(※、及び、下掲。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%96%B9%E6%AD%A3%E7%BE%A9 (〔〕内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%B9%B8%E4%B8%80 ([]内)

⇒牧野の韜晦がうまく行き過ぎて、軍部内の島津斉彬コンセンサス信奉者たる若手将校達やアジア主義者たる民間活動家達から、牧野は、勝海舟通奏低音信奉者だと誤解されてしまっていたわけだ。(太田)
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(続く)