太田述正コラム#10431(2019.3.14)
<ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む(その15)>(2019.6.1公開)

 「・・・大学寮の卒業生の一人、どこにでも顔を見せる鈴木貞一<(注9)>は、そうでありながら、バーデン・バーデン計画の実行においては、終始、彼の姿はなかった。

 (注9)1888~1989年。千葉県出身。陸士、陸大。「参謀本部の支那班・作戦課での勤務を命じられ、上海及び北京、武漢に駐在した。・・・1931年(昭和6年)三月事件に参加する。・・・。1931年(昭和6年)<9月>の満州事変勃発に伴い、<杉山元次官(前軍務局長)下で>軍務局勤務になると同時に、・・・立ち上げ<られた>・・・満蒙班<の班長として?>、・・・満洲政策を推し進めることとなる。その際、白鳥敏夫や森恪と連携して国際連盟脱退論を主張し、軍部における連盟脱退推進派としてその名が知れ渡るようになる。・・・1936年(昭和11年)の二・二六事件の際には、<杉山元参謀次長の意を受けて?>山下奉文と共に青年将校の説得に当たった。・・・
 1938年(昭和13年)・・・12月16日、興亜院政務部長に就任して(~1941年4月)。1940年(昭和15年)8月・・・中将に昇進した。同年12月23日、興亜院総務長官心得に就任した。1941年(昭和16年)4月・・・予備役編入となる。それと同時に、第2次近衛内閣国務大臣兼企画院総裁に就任した。以後、第3次近衛内閣・東條内閣でそれぞれ国務大臣を務める。東條内閣の際には、<英国>のインド植民省を真似て大東亜省を設立・・・
 太平洋戦争開戦直前の1941年(昭和16年)10月~12月の御前会議において、日本の経済力と軍事力の数量的分析結果に基づき、開戦を主張した。会議において鈴木は、ABCD包囲網等により石油が禁輸されてしまった以上、3年後には供給不能となり、産業も衰退し軍事行動も取れなくなり、支那だけではなく満洲・朝鮮半島・台湾も失ってしまうだろう、と主張した。故に、天皇に「座して相手の圧迫を待つに比しまして、国力の保持増進上有利であると確信致します」と述べたうえで、米英蘭と開戦して、南方資源地帯を占領することが必要不可欠だ、ということを説明した。
 また、戦後・・・企画院総裁就任の当初、船舶の損耗率の問題で対米戦争は困難という分析結果を発表していたが、東條内閣の成立と同時に、海軍が責任を持って損耗率を抑えるから大丈夫だと主張したため、「心配はない。この際は戦争した方が良い」という見解に変わった、と述べている。加えて、前述の通り、物資がないために開戦に踏み切ったのであって、日中戦争が泥沼化した時点で、既に開戦は不可避だったと認識していた、とも語っている。
 1942年(昭和17年)2月に大東亜建設審議会幹事長に就任し・・・1943年(昭和18年)・・・<からは、>内閣顧問、大日本産業報国会会長を務める。
 終戦後・・・A級戦犯に指定され・・・終身禁固の判決を受け服役<し、>1955年(昭和30年)・・・仮釈放され・・・1958年(昭和33年)に赦免された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%B2%9E%E4%B8%80

⇒鈴木貞一の軌跡は、完全に、杉山構想完遂協力者としてのものであり、バーガミニの指摘通り、彼が、大学寮の「学生」だったのだとすれば、恐らく、その当時において、「講師」を務めた杉山元によって協力者としてリクルートされたのでしょう。
 その鈴木は、日支戦争開戦後の対支政策(注10)、日本型経済体制の完成、及び、対米英開戦・・昭和天皇に大嘘を付いた!・・、において、とりわけ重要な役割を果たしたわけです。(太田)
 
 (注10)「興亜院は、昭和13年(1938年)12月16日に開設された日本の国家機関の一つ。日中戦争によって中国大陸での戦線が拡大し占領地域が増えたため、占領地に対する政務・開発事業を統一指揮するために第1次近衛内閣で設けられた。・・・昭和17年(1942年)11月1日に拓務省・対満事務局・外務省東亜局・同省南洋局と共に統合・改編され大東亜省に変わる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E4%BA%9C%E9%99%A2

 彼は当時、つねに中国にあって、新しい中国の星、蒋介石――日本の陸軍士官学校時代の士官候補生同士――の、初期の戦いとその隆盛を観察していた。・・・
 彼のパトロンは、砲兵少佐・・・の井上三郎<(注11)>侯爵――大正天皇側近の桂太郎首相の三男。鈴木貞一は、1919年に金融省で行われた一年間の特別経済訓練に井上侯爵と二人して参加し、互いに懇意となった。・・・

 (注11)1887~1959年。井上馨が養祖父にして義父(妻の父親)。陸士、陸大。陸軍少将で予備役編入。侯爵。息子が東大国史科教授の井上光貞。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E4%B8%89%E9%83%8E

⇒「金融省」は当然「大蔵省」でなければなりません。
 脱線しますが、井上三郎、すごいサラブレッドですねえ。(太田)

 蒋は、1923年12月、広東へ戻ると、日本の友人や信奉者や鈴木貞一といった協力者のリストを作り、日本の大学寮をモデルとした思想教化センター――黄浦大学と呼ばれた――を設立した。・・・

⇒バーガミニのものすごい妄想がまた炸裂しましたね。
 「黄浦大学」ならぬ、「黄埔軍官学校」ですが、同校、「コミンテルンの工作員ミハイル・ボロディンの進言による」設立
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E5%9F%94%E8%BB%8D%E5%AE%98%E5%AD%A6%E6%A0%A1
だというのに・・。(太田)

 1925年3月、バーデン・バーデン計画が日本の議会を通過した・・・」
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_30_08_2.htm

⇒????(太田)

(続く)