太田述正コラム#10433(2019.3.15)
<ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む(その16)>(2019.6.2公開)

  第九章 天皇裕仁(1926~1929)

 昭和天皇の生物学研究は生物兵器の開発に資するものだったとの妄想が記されていて呆れかえったくらいで、引用に値する部分はありませんでした。↓
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_30_09_1.htm

 「1927年5月、どこにも出現する鈴木貞一少佐は、蒋介石の近辺に付く任務を去り、裕仁の特務集団の計画の第二段階、すなわち、張作霖の中立化と日本の満州と蒙古の奪取を実現するために日本に配属され、近衛や<田中義一首相兼外相下の>〔森格〕外務政務次官を援助することとなった。鈴木はまず、大学寮出身の若い陸軍佐官を再招集し、中国問題についての 「研究会」 を設立するように工作した。・・・
 その研究会の後の名前は「無名会」とか「一夕会」<(コラム#9902、10042)>とかと呼ばれた。・・・
 その会員名簿を見ると、日本のファシズムの成長の過去帳であるかのようである。それには、パリの東久邇に仕えていた裕仁の侍従武官の町尻、もの静かな少佐で、後に最後の陸軍大臣として切腹することとなる侍従武官の阿南<惟幾>、1937年に盧溝橋事件をおこして対中国戦を始めた橋本群<(注12)>〔はしもと ぐん〕、1931-32年の満州占領を計画した石原<莞爾>、1942年マレーシアで、第25軍の指揮のもとで発生した残虐行為についての法廷に[、シベリア抑留中、ソ連側証人として]出廷する途中、1945年ソ連機内で自殺した草場辰巳<(注13)>、1945年のマニラ虐殺の時、フィリピンの参謀長であった武藤章<(コラム#10042)>、真珠湾の日、陸軍航空隊の指揮をとっていた一般幕僚作戦分隊の鈴木<率>道<(注14)>、1944年に完成した悪名高いタイ・ビルマ鉄道建設の際、ビルマでの参謀長であった田中新一、1946年<(ママ)>、墜落した米国人操縦士の首を切って処刑した横山勇<(注15)>、などが含まれていた。

 (注12)1886~1963年。広島県の農家に生まれる。幼年学校、陸士、陸大(優等)。フランス駐在、上原勇作元帥副官、軍事課長、支那駐屯軍参謀長、盧溝橋事件発生後、「内地軍派兵に反対意見を起草」。参謀本部第1部長、陸軍中将に昇進後、1939年5月にノモンハン事件が発生し、停戦後、予備役編入。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E7%BE%A4

⇒島津斉彬コンセンサス信奉者の上原の、そしてバーガミニの記述が正しければ、大学寮で杉山元の、薫陶を受けつつも、盧溝橋事件の時の言動から、橋本は同コンセンサス信奉者にはならなかったと見えます。だからこそ、杉山元が手を回したか、ノモンハン事件の時に生贄の一人に仕立て上げられ、馘首されたのでしょうね。
 いずれにせよ、バーガミニの橋本評は180度顚倒したものです。(太田)

 (注13)1888~1946年。陸軍軍人の子。幼年学校、陸士、陸大。陸軍中将。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%89%E5%A0%B4%E8%BE%B0%E5%B7%B3 ([]内も)
 (注14)よりみち(1890~1943年)。広島県生まれ。陸士、陸大(首席。次席は石原莞爾)。「1932年、真崎甚三郎参謀次長の下、中佐でありながら原則として大佐職の作戦課長に異例の抜擢を受ける。しかし参謀本部内では、国家総動員体制の確立を図る永田鉄山第2部長、東條英機編制動員課長と、あくまで対ソ戦を重視する小畑敏四郎第3部長、鈴木作戦課長の対立が激化。・・・二・二六事件後、鈴木も参謀本部から追われ、省部中央に返り咲くことはなかった。鈴木はまた・・・陸軍航空隊の発展に尽力していた。もともと砲兵出身であるが、将官となってからは航空畑を歴任し実績を残している。しかし前述の経緯もあって東條には疎まれており、<中将にはなったが、>1943年5月には第2航空軍司令官を突然解職され・・・予備役に編入され<」た、>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E7%8E%87%E9%81%93

⇒杉山元とは航空重視という点で考え方を同じくし、しかも、バーガミニの記述が正しければ、やはり、大学寮で杉山元の薫陶を受けたにもかかわらず、鈴木率道は、島津斉彬コンセンサス信奉者にならなかったようですね。これでは、杉山、東條に疎まれたのは当然です。(太田)

 (注15)1889~1952年。陸軍軍人の子。幼年学校、陸士、陸大。中将になり、最後は、「西部軍司令官となり、第16方面軍司令官兼西部軍管区司令官として九州および下関において本土決戦(決6号作戦)を指揮する予定であったが、福岡で終戦を迎えた。・・・
 1946年(昭和21年)7月、九州大学生体解剖事件及び油山事件の責任を問われ逮捕された。1948年(昭和23年)8月、絞首刑の判決が下されたが、1950年(昭和25年)7月、再審で減刑されて禁固刑となり、巣鴨プリズンで病死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%8B%87

⇒バーガミニの記述の表現はどぎつ過ぎますが、九州大学生体解剖事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E7%94%9F%E4%BD%93%E8%A7%A3%E5%89%96%E4%BA%8B%E4%BB%B6
は、対象が仮に福岡市等を対象に無差別爆撃を行う予定のB-29乗員達であったとしても、生体解剖による8名もの殺害は日支戦争/大東亜戦争における日本の(南京事件、シンガポール華僑事件とは違ったカテゴリーに属すところの、)731部隊による無差別殺人事件(コラム#10408)と並ぶ・・どちらも日本の医学界も責任を負うべき・・大不祥事です。(太田)

 その研究会メンバーのほとんどは、1921年パリにおいて、裕仁に私的に紹介されていた。・・・
 この鈴木研究会の使命は、特務集団の計画を防衛する論文――その外務政務次官は6月末に日本の首脳や政治家や植民地官僚全員による会議を開くことを計画しており、それに先立ってなされておくべき議論――を作成することだった。・・・」
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_40_15_2.htm

⇒それにしても、同じ場所で同じ講義を聴いて学んだ者同士であっても、また、自発的に団体に加入した者同士であっても、志が同じとは限らない、ということがよく分かりますね。(太田)

(続く)