太田述正コラム#10439(2019.3.18)
<ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む(その19)>(2019.6.5公開)

 常陽明治記念館の田中を通じ、大川博士は三つの超国粋的行動集団――クーデタによる威嚇に熱心で、天皇に成り代わり、その陰謀を計画し、必要ならその実行を本望としていた――と連携を維持していた。
 そうした集団の一つは、暗殺者も提供しうるもので、愛郷塾<(注20)(コラム#10042)>と称し、県庁都市水戸と大洗を結ぶ支道を10マイル〔16km〕ほど下った辺りに、12エーカー〔48,000m2〕の土地をもち、トルストイに傾倒した思想的自営農民組織を営んでいた。

 (注20)「橘孝三郎によって1931年に茨城県常磐村(現在の水戸市)に設立された私塾。正式名称は自営的農村勤労学校愛郷塾。・・・「新日本建設の闘士」を養成することを目的として設立した私塾・・・。塾生は1932年5月に「農民決死隊」を組織して変電所を襲撃し、五・一五事件に参加した。一時的に世間の耳目を集めるも、塾長の橘が無期懲役となり、勢力は衰退していき、1933年1月に事実上解散した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E9%83%B7%E5%A1%BE

 不作の翌年の1930年、貴族院の大兄、近衛親王と裕仁の伯父の東久邇親王は愛郷塾に寄贈を行い、その土地に学校を開設し、愛郷精神を教え始めていた。
 第二の活動家組織は、血盟団<(注21)(コラム#9902、10001、10042)>と称し、中国で訓練中の学生スパイから選抜されたつわものの中核集団だった。彼らは皆、常陽明治記念館の付属学校として大洗に設立された二つの学校――護身武道と霊魂教化を教える――の卒業生であった。

 (注21)「日蓮宗の僧侶である井上日召は、茨城県大洗町の立正護国堂を拠点に、近県の青年を集めて政治運動を行っていたが、1931年(昭和6年)、テロリズムによる性急な国家改造計画を企てた。「紀元節前後を目途としてまず民間が政治経済界の指導者を暗殺し、行動を開始すれば続いて海軍内部の同調者がクーデター決行に踏み切り、天皇中心主義にもとづく国家革新が成るであろう」というのが井上の構想であった。
 井上はこの構想に基づき、彼の思想に共鳴する青年たちからなる暗殺組織を結成した。 当初この暗殺集団には名称がなく「血盟団」とは事件後、井上を取り調べた検事によりつけられた名称である。・・・
 暗殺対象として挙げられたのは犬養毅・西園寺公望・幣原喜重郎・若槻禮次郎・団琢磨・鈴木喜三郎・井上準之助・牧野伸顕らなど<だったが、>・・・1932年(昭和7年)2月から3月にかけて・・・<「成功」したのは、井上準之助と團琢磨のみ。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E7%9B%9F%E5%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

⇒同年5月の五・一五事件は、血盟団の残党と愛郷塾のメンバー達が中心となって起こした(上掲)ので、もともと、両者の間に、地理的、人員的近親関係があったことは間違いないようですね。(太田)

  「決死隊」<(注22)>と呼ばれた第三の組織は、大洗の南方30マイル〔50km〕の霞ヶ浦にある航空訓練基地に属する海軍航空隊将校たちから抜擢されていた。・・・」
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_40_13_1.htm

 (注22)ネットに少し当たった限りでは、その存在を含め、不明。

 引用すべき個所がありませんでした。↓
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_40_13_2.htm

  第十四章 だましの戦争(1932年)

 「・・・日本陸軍を統括する将軍たちの三頭政治――陸軍大臣、参謀総長、そして陸軍監察長官・・・

⇒ギャー、陸軍監察長官→教育総監、ですぞ。(太田)

 <1932年>1月18日の午後、日蓮宗の僧侶二人と妙法寺〔日蓮宗の本山〕の門徒三人が、その攻撃的な習慣そのものに、団扇太鼓を打ち鳴らし、お経を唱えながら、タオル工場に近いインシャン河にそって闊歩してきた。後の田中[隆吉上海公使館附陸軍武官 (当時は少佐)]による説明によれば、ほとんどの妙法寺の信者は 「朝鮮人のみ」 だったので、田中は彼らを犠牲者に選んだということだった。その5人の僧と信者は、中国人職工――東洋の宝石の出費に見合うだけのやくざ者たちも加わって――に攻撃され、徹底的に打ちのめされた。そのうちの一人は、1月24日に死んだが、その死の前の19日、最初の小ぜり合いのほんの10時間後、重藤という憲兵に率いられた32人の日本青年一志会の団員が、そのタオル工場に未明時の反撃をしかけ、その建屋を焼き払ってしまっていた。その火災の際、中国人警官が現場にかけつけていたが、うち2名が殺され、2名が負傷していた。また襲った一志会の側では、1名が死に、2名が傷を負った。・・・

⇒これ、いわゆる、上海日本人僧侶襲撃事件ですが、仮に、日本山妙法寺の信者に朝鮮人が多かったというのが事実だとしても、当時、朝鮮人は日本臣民でしたし、そもそも、被害に遭った僧達は(いわゆる1939年(昭和14年)の創氏改名
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B5%E6%B0%8F%E6%94%B9%E5%90%8D
の前でもあり)その名前からして日本内地人達ですから、引用(?)された田中の言は言い訳になっていませんし、日本山妙法寺自身が、この事件を「全くの偶然」としている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E5%83%A7%E4%BE%B6%E8%A5%B2%E6%92%83%E4%BA%8B%E4%BB%B6
以上、これは田中隆吉(注23)の詐言でしょう。 

 (注23)1893~1972年。「現在の島根県安来市の商家に生まれる。」幼年学校、陸士、陸大。「綏遠事件を起こす。」陸軍省兵務局長等を歴任。「田中自身・・・戦争の責任の一端を感じていた<し>・・・、晩年はうつ病状態であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E9%9A%86%E5%90%89

 この「1956年に<も>なって」(上掲)からの田中の詐言の動機については、天皇の戦争責任回避のための、キーナンからの協力要請に応えて行ったところの、極東裁判での、東條や武藤章らにとって不利な・・但し、事実には必ずしも反していない・・諸証言が、とりわけ武藤の死刑に繋がったこと(上掲)への慚愧の念から、自身を世間にも悪人と思わせる形で、自らを断罪した、というのが私の見方です。
 なお、「注23」から、田中は、横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者であった、と見てよいでしょう。(太田)

 それまで、世界は航空機による市民への大規模な爆撃の結果を目撃したことはなかった。第一次世界大戦の末期、ドイツ軍の飛行船からダイナマイトがロンドンの数件の家屋に落とされ、穴を開けたことはあったが、死傷者数は取るに足らないほどだった。だが今回のチャペイでは、その後の広島の恐怖を連想させるものだった。何百人もの女性や子供が吹き飛ばされ肉片と化した。塩沢提督は、西洋社会では 「赤んぼう殺し」 として知られることとなった。・・・」
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_40_14_1.htm

⇒第一次上海事変(January 28 incident)の邦語ウィキペディアにはこれを伺わせる記述はありませんが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89
英語ウィキペディアには、これを、ゲルニカ爆撃の5年前に起った世界最初の、市民に対する爆撃(terror bombing)としています。
 但し、被害への言及はありません。
https://en.wikipedia.org/wiki/January_28_incident (太田)

(続く)