太田述正コラム#8252005.8.16

<酷暑旅行記(その4)>

その第二は、第一と関連しますが、大仏殿や大仏の創建時の色調は、当時も現在もグローバル・スタンダードであるところの絢爛豪華な色調(注13)であり、現在の日本人が好む色調とは全く異なるものだった、ということです。

(注13)仏教を生んだインド文明自身極彩色の文明だが、イスラム教同様、偶像とは無縁だった仏教が仏像を持つに至ったのは、ガンダーラ地方で、アレキサンダー大王がもたらしたギリシャ文明の影響を受けてからだ。

    そのギリシャ文明も、実は極彩色の文明だった。

ギリシャ文明の精華であるアテネ・アクロポリスのパルテノン神殿(紀元前5世紀)の破風の彫像群は、完全に色落ちしている現在の姿からは想像もできないが、極彩色に色つけされていた(http://en.wikipedia.org/wiki/Parthenon。8月16日アクセス)。オスマントルコからのギリシャの独立戦争が始まる直前の19世紀初頭に英国にその一部を持ち去られ、現在大英博物館に展示されているパルテノン神殿(大理石製)の破風と彫像群の返還をギリシャ政府は英国政府に求めているが、その理由の一つとして、酸化により薄はちみつ色をしていた表面に極彩色が施されていたいう説が昔からあったにもかかわらず、大英博物館当局がその説を無視して、パルテノン神殿の破風や彫像群を洗浄して「本来の」乳白色の色を取り戻そうとした結果、彩色の痕跡が永久に失われた、という点が挙げられている(http://www.parthenonuk.com/the_case_for_the_return.php。8月16日アクセス)ことは興味深い。

何せ、朱色を基調にした大仏殿の中に金色の大仏が鎮座していたのですから。

このことは、新薬師寺の十二神将のオリジナルの毒々しいまでの彩色(後述)についてもあてはまります。

色調を含めた現在の日本人の簡素・淡色を好む美意識は、世界では稀な存在です。おかげで、顔かたちが日本人とそっくりな朝鮮半島や支那の人々とすれ違っても、派手な色調や派手な模様入りの衣服を身につけているので、日本人との見分けがすぐつきます。

私が強く感じたことの第三は、大仏や大仏殿の建造、そして破壊と再建は、日本の歴史の大きな節目に対応した形で行われてきた、ということです。

大仏や大仏殿を含む東大寺の七堂伽藍の建造は、日本全国の国府等における国分寺と国分尼寺の建設の一環として、日本総国分寺に擬せられた大和国の金鐘山寺(改称され金光明寺、後に東大寺)において741年に始まり、半世紀近く経った789年に至ってようやく一応の完成を見ます。すなわち、大仏や大仏殿を含む東大寺の建造は、この全国にわたる巨大プロジェクトの中核的シンボルとして行われたものであり、律令制の最盛時において日本の国力を傾注して行われた鎮護国家建設の一環であったわけです。

しかし皮肉なことに、この巨大プロジェクトは、そのために労役と重税を課された民衆を疲弊させるとともに国家財政を破綻させ(注14)、723年の三世一身の法や743年の墾田永年私財法によって貴族が保有する土地が増えていったこともあり、土地と民衆を天皇のものとする公地公民制に立脚した律令制を維持することが困難となり、(水銀毒による(?)平城京から平安京への遷都とあいまって、)摂関時代をもたらすことになるのです。

(注14)これは、毎年のナイル氾濫に伴う農閑期に、農民の失業・飢餓対策を兼ねて行われた古代エジプトにおけるピラミッド建設(典拠失念)とは大きく異なるところだ。

その大仏殿等が灰燼に帰すのは、平安末期の源平の争乱の最中の1180年であり、東大寺の再建は翌1181年から鎌倉時代初期の1203年、すなわち鎌倉幕府最盛期にかけて行われます。この間、文治元年(1185年)に行われた大仏開眼法要においては後白河法皇が開眼の筆を執り、建久6年(1195年)に行われた大仏殿の落慶法要には、後鳥羽天皇源頼朝北条政子らが出席しています。

大仏殿等が再び灰燼に帰すのは、戦国時代の最後の年である1567年であり、東大寺の再度の再建には、安土桃山時代(1568年?1600年)から江戸時代初・中期という徳川幕府最盛期にかけての長期間を要し、最終的に五代将軍綱吉らの支援の下、大仏開眼供養が元禄5年(1692)、大仏殿落慶供養が宝永6年(1709)に執り行われています。

(続く)