太田述正コラム#10475(2019.4.5)
<佐伯山緑地「発見」>(2019.6.23公開)

1 始めに

 福岡オフ会で、私が事前に関心がある旨、同オフ会幹事のChaseさんに伝えたところの、高場乱の塾記念碑、及び、私が、同オフ会出席者集合地を間違えたおかげで「発見」した、廣田弘毅揮毫扁額、のどちらも、福岡在住の、Chaseさん、YKさん、共に、その存在を御存じなかったという話をしたばかりです(コラム#10453)が、自分だって同じじゃないの、という経験を今日したので、さっそくご報告を。
 実は、それ、先般の関西オフ会の幹事を首都圏から「出張」してやっていただいたHHさんのおかげなのです。
 このHHさん、先週末の東京オフ会にも出席されたのですが、その折、ノートとボールペンを忘れていかれ、宛先記入済みのゆうパックを郵送してこられたので、本日、朝、最寄りの郵便局に、それにノートとボールペンを入れて投函しに行ってきたのです。
 その帰途、初めて、公園の、ウチのすぐ前と言ってもいいくらいの位置にある拡幅部分、の拡幅工事が終わり、その部分が開園したばかり(コラム#10468)だったところにできた新しい入り口から、拡幅部分の中に入ってみたのです。
 (これまで、歩きで外出するのは夜なので、夜は入り口が閉まっていますし、自転車で外出するのは昼だけれど、自転車を路上駐車するのがはばかられたこともあり、入園する機会がなかったのです。)
 工事が終わった、と書きましたが、内部の造園工事は、まだ、連日行われており、お母さん達お2人が、それぞれ、1人の子供を遊ばせていました。
 そして、引き続き、佐伯山緑地の拡幅部分と元からある部分とを結ぶ階段を上って、高いところにある、元からある部分の中に入ってみました。
 もちろん、この部分は、前に入ってみたことがありますし、かなり前のオフ会で、出席者に、この部分(公園)からの、蒲田方面の眺望がいいので、立ち寄ってみるように呼び掛けたことがあるくらいです。
 ところが、今回、初めて、そこに石の胸像があることに気付き、その後ろに回ってみたところ、その胸像の主、及び、佐伯山緑地の読み方と由来、を初めて知った、というわけです。

2 佐伯矩と佐伯山緑地

 (1)佐伯矩

 胸像の主は、佐伯矩(さいきただす。1876~1959年)・・杉山元(1880~1945年)と同時代人・・でした。
 何と、彼のウィキペディアを開くと、実写真代わりに掲げられていたのが、この胸像の写真でした。
 ウィキペディアにはこうあります。↓ 

 「栄養学の創始者、栄養学の父である。医学から栄養学を独立させ、栄養研究所、栄養士制度を発展させた。・・・

⇒世界に先鞭をつけた日本人がここにもいた。(太田)

 少年時代は・・・現・伊予市・・・で育つ。松山中学校・・・岡山の第三高等学校医学部(現・岡山大学医学部)を卒業後、京都帝国大学で・・・医化学を学ぶ。・・・

⇒やっぱし、京大だったー。(太田)

 1904年、「大根ジアスターゼ」<・・タカジャスターゼではない!(太田)・・>という大根中の消化酵素を発見し学会で発表する。これにより一般大衆が好んで大根を用いるようになった。夏目漱石の『吾輩は猫である』にも登場することになる。
 1905年、<エ>ール大・・・に留学する。・・・その<後>、<米>農商務省技師や医科大学講師などを歴任・・・
 1914年、東京・・・に私立の栄養研究所を設立する。世界初の栄養学研究機関であった。米の研究を行い、文部省から研究補助費を受ける。中でも米の精製度の研究は<有名>。・・・1917年、世界初の栄養学講習会を開く。1918年、文部省に「営養」の表記を「栄養」に統一するよう建言し、これより後に完全に定着した。穀物の胚子(胚芽)には栄養が豊富だとして「胚子米(胚芽米)」を提唱している。また淘洗(米をとぎ洗いすること)による栄養損失の問題も警告している。・・・
 1919年(大正8年)、国立栄養研究所の設立を強調し衆議院に参考資料を提出する。「経済栄養法」を提唱し、安価な食事でも栄養は摂取できることを広めた。
 1920年(大正9年)、内務省栄養研究所が開設され、矩が初代所長となる。・・・
 1934年(昭和9年)、世界に先駆けて、日本栄養学会として栄養学が独立する。 ・・・
 1938年(昭和13年)、厚生省が新設され、栄養研究所の管轄が厚生省に移る。

⇒ここで、杉山構想との接点が!(太田)

 1939年(昭和14年)、栄養研究所は厚生科学研究所国民栄養部となり、佐伯は退官する。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%BC%AF%E7%9F%A9

 また、私がこちらに引っ越して来る前に構内の高台部分を大田区に区立公園用地として提供し、引っ越してきた直後に校舎が無人の廃墟になったところの、佐伯栄養専門学校、のウィキペディアにはこうあります。↓

1924年(大正13年) – 栄養指導の専門家を育てる世界初の学校として、佐伯矩が現在の東京都港区に「栄養学校」を設立。
1940年(昭和15年) – 現在の大田区中央5丁目(現・佐伯山緑地)に移転。
1947年(昭和22年) – 校名を「佐伯栄養学校」に改称。
1965年(昭和40年) – 3年制の管理栄養士特例科(栄養学科)を併設。
2002年(平成14年) – 校名を「佐伯栄養専門学校」に改称。
2006年(平成18年) – 「学校法人佐伯学園」を設立。栄養学科を廃止。
2015年(平成27年) – 大田区蒲田の新校舎に移転。・・・
 旧日本海軍内の栄養士養成教育を1928年(昭和3年)から受託していた。2018年現在も現役自衛官を学生として受け入れている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%BC%AF%E6%A0%84%E9%A4%8A%E5%B0%82%E9%96%80%E5%AD%A6%E6%A0%A1

⇒私の、現役時代の勤務先との関係まであった!(太田)

3 終わりに

 次回の東京オフ会(6月29日)の時には、ぜひ、上記コースでご観覧を。
 そして、もちろん、来年の3月末~4月初の東京オフ会の時には、桜を眺めついでに、佐伯山緑地の観覧を。
https://www.google.co.jp/maps/uv?hl=ja&pb=!1s0x6018603ce4611555:0x7672b52be4128bd9!2m22!2m2!1i80!2i80!3m1!2i20!16m16!1b1!2m2!1m1!1e1!2m2!1m1!1e3!2m2!1m1!1e5!2m2!1m1!1e4!2m2!1m1!1e6!3m1!7e115!4zL21hcHMvcGxhY2UvJUU0JUJEJTkwJUU0JUJDJUFGJUU1JUIxJUIxJUU3JUI3JTkxJUU1JTlDJUIwL0AzNS41ODA4NDg2LDEzOS43MTQxOTM4LDNhLDc1eSw0OS4xM2gsOTB0L2RhdGE9ITNtNCExZTEhM20yITFzLWNpSEpYZUFTekNDQXZXc1lDMVlsdyEyZTAhNG0yITNtMSExczB4NjAxODYwM2NlNDYxMTU1NToweDc2NzJiNTJiZTQxMjhiZDk_c2E9WA!5z5L2Q5Lyv5bGx57eR5ZywIC0gR29vZ2xlIOaknOe0og&imagekey=!1e2!2s-ciHJXeASzCCAvWsYC1Ylw&sa=X&ved=2ahUKEwiBqu711rjhAhWCUrwKHXcaCGoQpx8wCnoECA4QCw ←佐伯山緑地(の元からある部分)
https://www.google.co.jp/maps/uv?hl=ja&pb=!1s0x6018603ce4611555:0x7672b52be4128bd9!2m22!2m2!1i80!2i80!3m1!2i20!16m16!1b1!2m2!1m1!1e1!2m2!1m1!1e3!2m2!1m1!1e5!2m2!1m1!1e4!2m2!1m1!1e6!3m1!7e115!4shttps://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipPu1mdBnacwAizvDRWMpZvH4SVMPDZgfrLd9A4u%3Dw239-h160-k-no!5z5L2Q5Lyv5bGx57eR5ZywIC0gR29vZ2xlIOaknOe0og&imagekey=!1e10!2sAF1QipPu1mdBnacwAizvDRWMpZvH4SVMPDZgfrLd9A4u&sa=X&ved=2ahUKEwjg9v_g17jhAhXEXLwKHY_tCiUQoiowCnoECA8QBg ←佐伯山緑地(の元からある部分)からの眺望

 忘れるところでしたが、すぐ近くに、日本画家の川端龍子の龍子記念館(コラム#9729)
https://www.ota-bunka.or.jp/facilities/ryushi/tabid/218/Default.aspx
もありますからね。